第55話 伝わる思い
「イリア……!」
わななく唇から漏れた声。
震える細い体。
潤んだ瞳から、堰を切ったかの様に溢れ出す涙。
「良かった、良かった……イリア!」
俺の為にチェリカが泣いている。
折れてしまいそうな程。壊れてしまいそうな程。
なんて幸せなんだ。
自分の為に、こんなにも泣いてくれる人がいるなんて。
俺はそんな思いを腕に込め、チェリカの体を抱きしめた。
「イ……リア!?」
俺の腕にすっぽりと収まったチェリカは固まっていた。俺はそんな事をお構いなしに、きつく抱き締めた。
「チェリカ……」
上目遣いに俺を見るチェリカの頬に触れた。温もりが冷え切った指先から伝わる。
俺の腕の中にいるチェリカは、生きている。俺の為に【力】を使い、涙を流し、温もりを持って、今、確かに生きているのだ。
「本当に、チェリカなんだな……」
拭った涙さえも温かい。その事実が嬉しかった。俺は、そんな温もりを貪る様に、噛みしめる様に、チェリカの体を抱き締める。
「イリア、お医者様のところに行こう。早くその怪我、みてもらわないと」
その時、俺の腹の傷に触れながらチェリカが言った。その表情からは笑顔が消えていた。
「……あぁ」
未だに出血し続けるこの刺し傷を、不安に思っているのかもしれない。そう思わせる表情だった。
「立てる?」
不安の色を浮かべた表情のまま立ち上がったチェリカが、俺に手を差し伸べた。
その手を掴もうと腕を伸ばし起き上がろうとした瞬間、腹部に激痛が走った。
「……っ」
一瞬、息が止まる程の激痛。
それは当然の痛みだった。チェリカの【力】は病を癒やすものであり、怪我を治すものではないのだから。
途端にチェリカの顔が陰る。今の痛みが顔に出てしまったのだろう。
俺はなるべく痛みを表情に出さない様にして立ち上がった。
しかし痛みはかろうじて我慢できたが、失血による目眩や立ち眩みはどうにもならない。
俺は足元から何度も崩れ、その度にチェリカの細い腕に全体重を預ける羽目になってしまった。
日は既に傾いていた。
いつの間にかダリウスが姿を消していた事には付かなかった。そんな事など、もう、どうでも良くなっていたようだ。チェリカに出会えたという奇跡だけで、俺は満足していたのだ。
息を切らし、俺の体を懸命に支えながらも、チェリカはその足を止めようとしなかった。
どれくらいを歩いたかは定かではない。
しかし辺りを赤く染めあげていた夕日は遠く地の果てに沈み、夜の闇が訪れている以上、距離はともかくかなりの時間を歩き続けている事には変わりなかった。
空には満天の星とまん丸の月が浮かんでいる。
今日は満月なんだな、なんてどうでもいいことをぼんやりと考えながらも、俺は何とか意識を手放さずにいられた。
歩きながらチェリカは幾度となく話しかけていた様な気がする。けれどそれらの半分も頭に入ってはいなかった。そちらに気をまわす事が出来なかったのだ。
今は、歩かなければいけない。
苦痛を表情に出してはいけない。
チェリカに心配をかけてはいけない。 病を治す為にチェリカは俺の前に現れた。そして今も、この腹の傷を医者にみてもらう為、俺の体を支え共に歩いている。
俺の為にこんなに一生懸命になっているチェリカを裏切るなど、出来ない。
「イリアは、怪我が治ったらどうしたい?」
それは、そんな俺に届いた数少ない言葉だった。
怪我が治ったら?
そんな事考えてもいなかった。あの最果ての崖で、俺は朽ちていく筈だったのだから。そう決めて、俺は今向かおうとしている帝都を飛び出したのだ。
「……そうだな……。もし、叶うなら――」
でも、もし望む事が許されるなら。
願うだけでも許されるなら。
「カラファへ……、ユナと、チェリカと、三人で……戻りたい」
昔の様に、また平和に生きていけたら、どんなにいいだろう。
生きていたチェリカと、目を覚ましたユナと、また三人で生きられたら――。
「……うん。そうだね……」
チェリカはそう言って頷き、天を仰いだ。
「……チェリカ」
「なぁに?」
肩を支える手から震えが伝わってくる。天を仰ぐチェリカの表情を、俺は見る事は出来なかった。
「いや……何でもない」
俺は出かけた言葉を飲み込んで、足に力を込めた。
そして、その言葉を最後に、沈黙が訪れた。
静寂が支配する中、聞こえるのはお互いの息づかいと大地を踏みしめる音。一歩ずつではあったが、歩みは確実に進められていた。けれど、それと反比例して、そのスピードが遅くなっている事に、俺は気付いていた。
大の男一人を、その細腕で支えようとする事が無謀なのだ。加えて目指すべき場所は目眩がする程遠い。
それでも、チェリカは諦めようとはしないのだ。
チェリカの思いは、痛い程伝わっている。
俺の事を、何とかして助けようと奔走しているのが分かる。
でもだからこそ、分かってしまう。
もう限界なのであろう事を。
そうだろう、チェリカ?
はぁはぁと息を切らしたチェリカの横顔を見上げる。額からは汗が流れていた。
チェリカ自身の疲労と、俺の重さで、先程から何度も共に崩れそうになっている。
一歩を踏み出すその時間が、だんだんと長くなってゆく。
チェリカの思いを裏切りたくはない。けれど、自分の事は自分が一番良く分かってた。
腹を俯き見ると、相変わらず血が流れ出している。裾まで血が染み込んだローブは、大地に赤くくっきりと俺達の軌跡を描いていた。
痛みは引くどころか次第に増し、呼吸を整える事が、だんだんと辛くなってきていた。顔を上げられないのもそのせいだ。今の俺の顔を見れば、チェリカはきっと心配するだろう。そんなチェリカの顔を見たくはなかった。
お互いの呼気が、宵の闇に吸い込まれてゆく。
大分負担のかかっているだろうチェリカの足からは、がくがくと震えが伝わってきた。
俺自身は、酷い寒気と目眩を感じていた。血を流し過ぎたのだろう。もう意識を保ち続ける事は――出来なさそうだ。
「……はぁ、はぁ」
分かっていた事だ。
たとえ、チェリカの【力】で体の不調を癒やして貰ったのだとしても、その【力】は怪我を癒やすものではないのだから。この傷で帝都に辿り着けやしない事など――分かっていた筈だったのに。
俺がどうしようもなく愚かだった。
望む事など、許されない程の罪を犯したというのに、願ってしまった。
昔の様に、平穏に――生きたいなどと。
その願いが今、チェリカを苦しめている。この細い体では支えきれない程の負担を与えてしまっている。
ごめんな、チェリカ。
もう、十分だよ。
俺の為に、ここまで懸命になってくれてありがとう。
でも、もう諦めていいんだ。
俺は、もう――。
「……はぁっ、………っ」
刹那、視界は暗転した。