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第53話 温もり


「――がっ、は……っ」


 腹に埋まる短刀を引き抜いた途端、膝の力が抜けた。

 喉の奥から登ってきた血を吐き出し、遅れて感じた激痛と焼けるような熱さに身をよじりながら、俺はすぐそこに立つダリウスを見上げた。


「ダ……ウス、ど……」


 ダリウスは、特に表情を変える事無くそこに立っていた。そんなダリウスの名を呼ぼうとしたが、口に溜まる血が邪魔をして上手く喋れなかった。


「あともう少しだけ【力】を使って下されば、こんな事をせずに済んだのです……」


 何を言っているのか分からなかった。いや、腹の底から響く痛みが邪魔をして、聞き取る事が出来なかったのだ。

 ただ、じゃり、と土を踏みしめる音と共に、ダリウスの影が遠ざかっていった事だけは分かった。


 腹からは止めどなく血が溢れてくる。温かくぬるりとした感触をした液体は、両手から溢れ出し地面を赤く染めてゆく。


「――っはぁ……」


 まさか、こんな形でこの命が終わるとは、考えてなかった。


 でも、これは――俺が持たざる者達に与えた痛みだ。そう考えると、なんだかこの結末は当然な事であるようにも感じた。


「げほっ、げほっ」


 どうやら休憩を決め込んでいた不調も、ここぞとばかりにやって来た様だ。


 体に力が入らない。

 視界が霞む。

 腹が焼ける様に熱く、痛む。

 息が、出来ない。


「――っ、ぐ……」


 こんな仕打ちをされても、ダリウスを恨む気にはなれなかった。

 俺が悪い。彼の、彼等の期待に応えられないのは、事実なのだから。


 咳をしながら、どくんどくんと心臓が脈打つのを感じた。

 意識が朦朧としてくるのが自分で分かる。


 だからなのだろう。


 懐かしい声が聞こえた気がした。イリア、と呼ぶチェリカの声が。

 気のせいだという事は分かっていた。けれど、嬉しかった。


「イリア……っ」


 あぁ、遂に俺の耳は壊れてしまったらしい。また、声が聞こえる。

 涙が出そうだ。こんなにも懐かしいなんて。チェリカ、君の声が、こんなにも愛しいなんて。


「イリアっ!」


 あぁ、幻まで見える。ダリウスの背の向こうに、チェリカが見える。


「イリア……!」


 幻が俺の名を呼ぶ。


「チェリカ」


 思わず呼ばずにはいられなかった。 掠れた声は決して届きはしないだろうけど、それでも。


 上気した頬。

 潤んだ瞳。

 風になびく金の髪。


 近付いてくるにつれ、鮮明になっていく幻。それはチェリカだった。まぎれもなく、俺の記憶の中のチェリカだった。チェリカがダリウスを押しのけ、向かって来た。


 痛みも忘れ、上体を起こした。

 その姿をこの目に焼き付けたかった。


 しかし再び喉の奥から登ってきた血を吐き出す為に、俺は地面に手をついた。

 チェリカの幻をこの目に焼き付けたい、それすら許さないとでもいう様に、体は言う事を聞かなかった。


「げほっ、がはっ……」


 吐けども吐けども血は溢れ出した。口中に鉄の味が広がる。


「……っ……うぅ」


 咳の振動は直に腹の傷に響いた。けれど我慢する事も出来なかった。


 その時だった。


 白く、細い指が――俺の手に触れた。


 腹を押さえる俺の手の上から、温かい体温が伝わる。 感じる筈の無い感触、伝わる筈の無い体温を、確かに今。


 信じられない。

 俺の目の前で、チェリカは死んだのに。その亡骸はここに眠っている筈のなのに。


 チェリカは自らの服を裂き、俺の腹に当てた。俺は咳をしながら、腹に当てられた布越しにチェリカの体温を感じた。


「はぁ……っ、はぁ……っ」


 目頭が、熱い。


 これは一体、何の奇跡なのだろう。

 今更、こんなにも自分に都合がいい、嬉しい奇跡が舞い降りるなんて。こんな俺に――。


 刹那、ぐらりと視界が揺れた。全身の力が抜けていったのが分かった。

 しかし、地面に打ち付けられる筈の俺の体は、柔らかい腕に抱き止められた。


「イリア……」


 絞り出す様な声だった。けれど覗き込むチェリカの輪郭はぼやけ、表情は、よく分からない。

 もう、目もあまり見えない事に気付くと同時に、どうしてもチェリカに言わなければならない言葉がある事を、俺は思い出した。


「ご……めん……」


 間に合わなくてごめん。

 助けてあげられなくて、ごめん。

 ――掠れた声は君に届くだろうか。

 君は許してくれるだろうか。こんなにも愚かで不甲斐ない俺を。


 その時、俺はチェリカが怪我をしているのに気付いた。頬から血が出ている。

 俺は、血を拭おうと腕を伸ばした。


「血……、大丈……夫か?」


 伸ばした手を、チェリカが優しく掴んだ。もうチェリカの声すらはっきりと聞こえる事は無い。けれど温かい、ただそれだけで嬉しかった。


 涙が溢れるのを堪える事が出来ない。

 最後に君に会う事が出来た。

 声を聞く事が出来た。

 その温かさに触れる事が出来た。


「……チェリカ」


 もう、悔いは無い。


 俺は力を振り絞り、チェリカの掴む手を更に高く伸ばした。そのままチェリカの肩に乗せ引き寄せる。


 ふわりと香る匂いが鼻腔をくすぐった。抱き寄せたチェリカの体は細く温かい。柔らかな感触、そして頬にはチェリカの呼気を感じた。


 同時に思い出すのはあの日の惨劇。炎に焼かれ尋常ではない体温を残し死んでいったチェリカ。

 けれど、今確かにチェリカはこの腕の中にいる。


 夢――だったのだろうか。今までの出来事は、全て。もしそうなら、どんなにいいだろう。

 君は生きている。そして生き続ける。誰かと結ばれ、子供を授かり、年老いてゆく。いつかは死ぬだろう。けれど家族に、愛する者に囲まれ逝くのなら、きっと幸せな事だ。


「チェリカ……」


 耳元で囁くと、チェリカは俺に顔を向けた。


 間近だからなのか、今はチェリカの顔をはっきりと見る事が出来た。青い瞳からは涙がこぼれ、金糸の髪はその涙で顔に張り付いている。細い肩が震えていた。


「イリア……」


 とても悲しげな声だった。けれど、今の俺には何も出来ない。チェリカを笑わせる事はおろか、泣き止ませる事さえ。


「あのね、私シィンに聞いたの」


 腹の傷を押さえるチェリカが囁いた。その声は震えている。

 意識が朦朧としていた俺には、チェリカの口からシィンという名前が出てきた事を疑問に思う事も出来なかった。


「イリアの【力】、病気だって。だから……」


 チェリカが俺の胸に顔を埋めた。

 血を流し過ぎ冷えた体に、ローブ越しに染み込んできた涙の温かさが伝わる。


 その温かさを意識してやっと、今チェリカが発した言葉を気に留める事が出来た。


 チェリカは今、何と言った?

 病だ、と言ったのか? 俺のこの【力】が病であると、そう言ったのか?


「今、治すから」


 俺の胸に突っ伏してそうチェリカが言った直後、体が何か温かいもので満たされていく様な感覚が訪れた。同時に、それまで感じていた不調が嘘の様に消えていく。


 何度も目の当たりにしてきたチェリカの【力】。人の病を治す【力】。


 それが俺に効いたのか? 今まで感じてきた不調は、チェリカの言う通り、病であったというのか?


 ふと胸元に視線を送る。

 チェリカは突っ伏したまま動こうとしない。ただ、その細い体の震えは伝わってきた。


「チェ、リカ……」


 驚く程スムーズに声を出せた。先程まで、込み上げる血が邪魔をしていたというのに。


 声をかけられたチェリカの体がびくりと跳ねた。チェリカも気付いた筈なのだ。それまでの声との違いに。


「イ……リア」


 チェリカがゆっくりと顔を上げる。


「チェリカ……」


 その顔は涙でぐちゃぐちゃだった。髪の毛は乱れているし、着ている服も傷の止血に使う為に裂いてしまったのでボロボロだ。


「イリア……!」


 けれど、その瞬間見せた笑顔は、それらをものとも言わせない程、綺麗だった。



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