第52話 赤く染まる場所
瞼を開け、私が立っていた場所は、女性の家の中だった。
ただしそこは、私がつい先程までいた家ではない。イリアを匿った女性を帝国軍が連行した痕が色濃く残る、現実世界の女性の家だ。
蝶番の壊れた扉がキイキイと音を立てている。
私は、はらはらと涙を流すシィンと向かい合っていた。
「何故、泣いているの? 間に合わないってどういう意味?」
私の問いに答える事なく、シィンは涙を流し続ける。
今すぐにでも最果ての崖へ駆け出したい気持ちと、シィンの放った意味深な言葉の意味を知りたい気持ちが入り混じる。
しかしシィンは、ぺたりと座り込みそのまま俯いてしまった。
「シィン……」
俯いた顔が上がる気配は無い。
きっと、このままシィンの言葉の意味を知るべく待ち続けても、埒があかないだろう。間に合わない――その意味は分からないけれど、きっと急いだ方がいい。
「……私、行くわ」
そう言っても俯いたままの顔が反応する事は無かった。
私は踵を返した。
照りつける太陽が、体力を奪っていくのが分かる。
あの女性の【力】で怪我を治して貰ったとは言え、一応病み上がりの体なのだから、仕方ない事は分かっているが、急がなければならない今、思う様に動かない足がいまいましかった。
しかし目的の地はもう目前だ。諦める訳にはいかない。
水平線が遠くに見える。潮の香りが鼻腔をくすぐった。私の墓標はまだ視認出来ないが、それでも期待が胸の内に膨らんできた。
今度こそ会えるのだ、と。そして私の【力】でイリアの病を治せばイリアを救う事が出来るのだ、と。
ただそんな思いだけが、私を突き動かしていた。
そして到達したその場所。
しかし私の墓標の前に佇む人影は、予想外に二つあった。
一つはフードまですっぽりとかぶった黒いローブを纏った長身の影。もう一つが白く長い衣を纏った、黒いローブの影よりも若干小柄な影。
二つの人影は、近付いてゆく私には気付いていない。
「……はぁ、はぁ」
恐らく、身長的に見ても黒いローブを纏った人影の方がイリアだろう。それではあの白い人影は――?
二つの人影は密着し、何かを話している様だったが、その内容までは聞こえてこない。私は一歩、そしてまた一歩と進んだ。
「ダリウス……っ」
その時だった。
黒いローブを纏った人影が声を荒げて叫んだ。
その声は、紛れもなくずっと探してきたイリアのものだった。私は思わず涙が出そうになるのを堪えた。
すぐそこにいる。
ずっと探していたイリアがすぐそこに。
手を伸ばせば届く所にいる!
「イリアっ!」
私は堪えきれず叫んだ。
十分声は届く距離だと思った。しかし、白黒の人影は微動だにしない。
駆け出したくなる衝動を抑え、私は少しずつ距離を縮めていった。
私は手を伸ばした。
すぐそこにいるイリアに向かって、あらん限り腕を伸ばした。
届くと思った。
あの笑顔をもう一度見られるのだと、そう思った。
しかし、私の目に映り込んだのは腹を押さえ、膝を折った黒い人影だった。
フードがふわりと脱げ、そこからは太陽の光できらきらと輝く銀の髪が露わになる。
何が起きたのか、分からなかった。
最悪の事態が起きていたなんて、誰が思っただろう。
「イリア……!」
何が起きたのかも分からず、もう一度探し続けていた人の名を呼んだ。しかし振り返ったのは、白い衣を纏った人影の方だった。
くるりと私に向き直ったのは、老人だった。
私は、自分の体が硬直するのが分かった。
不自然に赤く染まった老人の白い衣。
同じ色で染まる手。
そこから滴る、粘着質な赤黒い液体。
それが分からない程、私はここまで平坦な道を歩んではいない。
ここに至るまで、何度同じものを目にし、同じものに触れ、同じものを流したか。
あれは――血だ。
目の前にいる老人は、血まみれで立っている――。
「おや……」
老人が言葉を発した。
深い皺の刻まれた頬には涙の痕があったが、その表情は酷く涼やかに見える。
「……シィン、気にする事など無いと言ったのに……」
老人は、硬直し動かせずにいた私の体を一瞥し呟いた。
「しかし、もう遅い」
そう言って老人は私に近付いた。
小柄だった様に見えたその体は、意外にも大きく立ちはだかって見える。
いや、もしかしたらこの老人の持つ得体の知れない圧倒的な存在感が、必要以上にその体を大きく見せているのかもしれない。
「手に入らない【力】など、脅威となるだけ。貴方もそう思うでしょう?」
私の目の前まで進み出た老人が、血に濡れた手を伸ばし、私の頬に触れた。
ぬるりとした感触を感じる。錆びた鉄の様な臭いが鼻についた。
「チェリカ・ヴァレンシア。貴方にも感謝しているのですよ」
老人は私の名を呼んだ。
心臓がびくりと跳ね上がる。そして感じた疑問。何故、私の名を知っているのか――?
「……イリア・フェイトという男に、我々反帝国組織が出逢う事が出来たのは貴方のおかげだ。貴方が【力】を持ち、帝国に処刑されてくれたおかげで、破壊の【力】も容易く得ることが出来た」
その老人の言葉で、私の中で数々の事実が繋がった。
つまりは、目の前にいる老人もシィンと同じく反帝国組織にくみする人間。
そしてシィンの流した涙。彼はこうなる事を知っていたのだ。【力】を使う事を拒むイリアが、反帝国組織にとって無用となる事を。
少なくとも、シィンはイリアを救おうとしていた。一体どんな思いでいたのかは分からないが、だからこそ私に【力】を使うように頼んできた。
けれどシィンはあくまでも反帝国組織の一員であり、目の前の老人の仲間なのだ――裏切りたくは無かったのだろう。
それを表したのが、あの涙だった。
「……貴方の起こした奇跡は、無駄となりましたね」
そう老人が言い放った時、どさりと音がして私は我に返った。老人の肩越しに見えたイリアが四つん這いに倒れていた。
咳をすると銀髪が激しく揺れると同時に、地面が赤く染まってゆく。
「イリア……っ」
私は叫んだ。一瞬、イリアの咳が止まった。
「イリアっ!!」
もう一度叫ぶ。より大きく、はっきりと。彼の耳に届く様に、彼が気付いてくれる様に。
錆び付いていたかの様にぎこちなく、イリアの顔が上がる。
やっと待ちわびた時が訪れた。
時が止まってしまったかの様な永遠の時に感じた。
もう二度と会えない、と思った時もあった。諦めかけた時も、涙に濡れた日も。けれど、やっと――。
「イリア……!」
銀髪が風に吹かれてゆらりと揺れた。
青白い顔がわなわなと震えていた。
褐色の瞳が見開かれた。
赤く染まった口元が小さく動く。
あまりにか細く、かすれた声を聞き取る事は出来なかった。でも、今確かに、唇が動いた。チェリカ、と呼んだ。
「……っ!」
しかし、四つん這いになっていたイリアが上体をゆっくりと起こすのを見て、私は血の気が引くのを感じた。
腹部を押さえるイリアの手は赤く、その付近のローブの黒い生地がぐっしょりと濡れて、明らかに色が違うのが見て取れたからだ。
「ふふ……」
頭の上で老人が笑った。
私はそんな老人を押しのけ、イリアの側に駆け寄った。
イリアは再び地面に手をつき酷く咳込んだ。そのたびに吐き出される血の多さに寒気すら感じる程で、辺りは一気に赤く染めあげられた。
私は服の裾を破き、ローブの上からイリアの手が押さえている部分に当てた。
温かい血が流れだしているのが分かった。みるみるうちにそれは水気を含んで、やがてはそれだけで押さえきれず、端からぽたぽたと赤い血が滴った。
焦りと不安が胸の内に広がってゆく。私の【力】は病を癒すもの。怪我を治す事など出来ないのだから。
咳が治まったイリアの呼吸は荒かった。そのまま前のめりに倒れそうになった所を、私は何とか受け止めた。
傷口が地面に触れてはいけないと思い、イリアの体を仰向けにし頭を膝の上に載せる。
苦しそうに顔を歪めるイリアの瞳が私を見た。
「イリア……」
私が呼びかけると、赤く染まったイリアの唇が僅かに動く。私はイリアの口元に耳を寄せた。
「……ごめ……ん」
微かに、微かに届いたそれは、謝罪の言葉。閉じたイリアの瞳からは大粒の涙がこぼれている。
どうして謝るの?
何を謝る必要があるの?
謝らなければいけないのは、私のほう。私の為に、私のせいであなたは傷付いた。
きっとその苦しみは、悩みは想像を絶するものだったろう。
それなのに――。
その時、イリアの手が伸ばされ、私の頬に触れた。
「血……、大丈……夫か?」
血まみれのその手は赤く、冷たく、そして震えていた。
イリアの顔を見る。血の気の失せた顔、血に塗れた口元は、思わず目を背けたくなった。
私は優しく頬に触れるイリアの手を取った。
「違う、違うよ。……これはイリアの血なんだよ……」
イリアは、あの老人が私の頬に触れた時についた血を、私が怪我をしているからだと思っている様だった。
あまりに痛ましく、あまりに酷すぎるその姿を見続ける事が出来ず、私は視線を落とした。
血だまりになったそこには、無惨にも踏みつけられ赤く染まった花があった。