第50話 夢と現
夢を見た。
それはかつての日常の夢だった。
私は夢の中ではまだベッドの上で布団をかぶっていて、そんな自分を傍観する私自身がそこにはいた。
そんな中、力強く叩かれる扉の音に目を覚ます。ベッドから這い出し、扉を開け現れたのは、青い顔をして息を切らしたイリアだった。
「チェリカ……すまない、【力】を貸してくれ……」
息せき切るイリアの言葉を夢の中の私は了承し、一緒に走り出していった。向かう場所は決まっている。発作を起こしたユナの元だ。
夢の中は時間の概念が無いのか、イリアの家には飛ぶように早く着いた。そしてそこには息苦しそうに咳を繰り返し、ベッドに横たわるユナがいた。
「ユナ……大丈夫? 今、治してあげるから」
そう言って夢の中の私はユナの体に手を当てた。それと同時にユナの血の気の無い顔は、まるで生気を吹き込まれたかの様に、健常な人のものへと変化してゆく。それはまぎれもなく病を癒やす私の【力】だった。
「いつもすまない、チェリカ。ありがとう」
イリアが申し訳なさそうに視線を落とした。髪と同じ銀色の睫が頬に影をつくる。
そうだ、イリアは私が【力】を使った後はいつもこんな顔をしていた。ユナの無事を喜ぶと同時に、苦しむ妹の前で無力な自分を責め、【力】が無い事を恥じていた。
「俺にも、【力】があれば……」
イリアの口癖。顔を逸らし儚げな笑みを浮かべ呟く。
そんなイリアが破壊の【力】を手に入れるなど、誰が想像出来ただろう。
次の瞬間、周りの景色が瞬時に入れ替わった。それは夢だからこそ為せる事で、夢だと認識している自分にも、特に驚く事は無かった。
私の目の前で向かい合う自分とイリア。それは悲しいほどに懐かしい思い出。大切な思い出の一ページ。
「それ、やるよ」
イリアが私に包みを差し出す。夢の中の私はきょとんとした表情で首を傾げる。
「誕生日だろ、今日」
言われて目を丸くし、少しだけ頬を赤らめた目の前の私。端で見ると気恥ずかしい思いがするのは、決して自分の誕生日を忘れていたからだけでは無い。
嬉しかった、ただ純粋に。
「私に?」
尋ね口調ではあったが、既に手は包みを開けにかかっていた。
「……ピアス」
包みから取り出したピアスを目の前にかざす。鮮やかな赤が太陽に透けきらきらと輝いている。それを見る夢の中の私の目も輝いていた。
「自分の誕生日、忘れてんなよなー」
イリアが笑った。優しいその笑みは心からのものだと思う。こんな笑顔を見るのは一体いつぶりなのだろう。少なくとも、私があの世界を訪れてからは、一度も無かった。
目の前の自分達は、幸せそうに見えた。いや、確かに幸せだった。
私は自分の耳に触れ、目を閉じた。
瞼を開けると、目の前の景色は再びがらりと変わっていた。
空は暗く今にも雨が振りそうだった。大勢の軍服を纏った兵士達に囲まれる様にして、私はそこに佇んでいた。勿論、夢の中の私も一緒だ。
傍らで俯く私は真っ黒なローブを纏っていた。そしてその手には縄が。
そこは見覚えのある場所だった。レイヴェニスタだ。
夢の中の私は【力】を持つ魔女として連行され、今まさに帝都に到着したのだ。縄を引かれ、引きずられる様にして歩く私の顔は酷く白く見えた。
「さっさと歩け!」
後ろから屈強な男が私の背を乱暴に押す。よろめき転びそうになるも、強引に縄を引かれ、無理矢理立たせられる。人を人と思わぬ様な扱いを、目の前の私は受けていた。
「……」
強引に歩かされる私は、生気の感じられない顔を一瞬上げた。その時だった。死んだ様な目がまんまるく見開かれたのは。
私は知っている。その目に何が映っているのか――。
「イ……リア……?」
そこにいるはずの無い人の名を呼ぶ。
瞳に驚きの色が浮かぶ。
瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
瞳に喜びの色が浮かぶ。
しかしすぐにそれらの色は消え、かわりに不安の色が浮かぶのを、私は知っていた。
後ろを振り返る。連行された魔女を口汚く罵る沢山の人々の中に、その人はいた。
懐かしい銀髪。褐色の瞳。二度と会える事は無いと思っていたその人の名は――イリア。
彼が手を伸ばす。しかしその手が届く事は無く、黒いローブを身に纏った私は兵士達に連れられていった。後ろを振り返る返る事は無かった。
目を閉じる。
この目を開ければ、またこの視界は変わるのだろう。
開けたくなかった。きっと次に行き着く場所は決まっている。そこは終わりの場所――そして、私が私として生きる事になった始まりの場所。
私はゆっくりと目を開けた。
「チェリカ……っ」
伸ばされた手が、目の前で崩れてゆく。時間の流れがおかしくなってしまったかの様にゆっくりと、そして突然に。
体を貫き現れた刃の切っ先は赤く染まり、どくどくと血が溢れている。きっと彼は何が起きたのか分かってはいまい。
同時に辺りが赤く染まった。
「あぁぁ……っ」
苦しげな呻きをあげているのは、私だ。夢の中の私が縛り付けられた十字架に火が放たれたのだ。皮膚が焼け、喉が焼けた。その炎の激しさに息が止まる。
――私には、分かる。その痛み、その苦しみ。そしてそれ以上の、悲しさ。
違う。違うのに。私が願い、望んだことはこんな事では無かったのに。
――あぁ、私が恥じている。イリアを見た時に喜びすら感じてしまった事を。こうなる事は明らかだったのに、一瞬でも嬉しいと思った事を。
お願い。誰か助けて。誰かイリアを助けて。
――目の前のイリアは懸命に立ち上がろうとしていた。腹を押さえた手からは赤黒い血がそのたびに噴き出している。悔しさと悲しさと憤りを併せた様な表情で、その瞳には炎に焼かれる私が映っていた。
まだ間に合うから。だから、お願い。
――自分の声が頭に響いた。何度も、何度も聞こえてきた、あの声だ。何度も、夢で聞いていたあの声だ。
お願い。イリアを助けて。
――今なら、分かる。
お願い――!
――これは、現実。あの日、あの時、確かにこの身に起きた事実。
いつの間にか、辺りには暗闇と静寂が訪れていた。炎に包まれた私も、腹を刃で貫かれたイリアも目の前から消え去った。 何も見えず、何も聞こえない。
そんな暗闇の中で私は思い出していた。これが全ての始まりだったのだと。
私は、私を助ける為に帝都までやって来たイリアを救う為に、レイヴェニスタの牢で出会った少年、シィンの【力】を借りた。あくまでも今を渡る【力】であると信じて、別世界にいる自分に助けを求めようとした。
それが、偽りであるとも知らずに。
訪れた世界が平和であるのは、当然の事だったのだ。
何故ならば、その世界は私がそうであればと望んだ世界――夢の世界だったのだから。【力】がある者もその事に怯える事無く、平和に生きている世界。それが私の望んだ世界だった。
その世界のイリアが【力】を持っていなかったのは、私が【力】を持たないイリアしか知らなかったから。
【力】を持つ者は処刑されるという現実の世界で、【力】があればと願うイリアの姿は、夢の世界にも同じ様に投影されたのだ。
そう。私が今まで生きてきたと思っていたこの世界は、偽りの世界。夢、という名の現実とは似て非なる世界。
そして私は、現実で処刑されたチェリカ・ヴァレンシアの夢の住人。だから記憶を共有していてもおかしくは無かった。
何故、私が今ここにいられるのか。
私は夢の世界の住人。現実を生き、この夢を見た私は、もう既にいないというのに。 本当なら、この記憶が、現実の世界で生きていた記憶が、夢の住人である私に存在する事自体が有り得ないのだ。思い出す筈無かったのに、とあの時少年は言っていたのだから。
まさに奇跡――。
そうとしか言いようが無い。
イリアが死ぬ?
そんな事させるものか。私はイリアを救う為にいるのだから。
必ず、救う。イリアの為にも。そして願いを込めた私自身の為にも。
瞬間、辺りを覆い尽くしていた暗闇が唐突に晴れていった。
「……リカ……」
視界に見慣れない天井が映る。遠くで誰かが私を呼んでいる様な気がした。
「……です、まだ…………す」
今度聞こえてきたのは女性の声。その声は先程聞こえてきた声と何らかの応酬をしている。
バタバタと騒がしくなるにつれて、思考が冴えてきた。そうだ、私はシィンに怪我を治して貰う為、あの女性の元へ連れてこられたんだ。
体を起こそうとすると、若干目眩はするものの、驚く程簡単にそれは出来た。もしかしたら、思っている以上に、私は長く眠っていたのかもしれない。
「駄目です!」
同時に目の前の扉が激しく音をたてて開いた。現れたのは、青い顔をして息を切らすシィンだった。
「チェ、リカ…………シア」
その表情は私に嫌な予感を抱かせた。シィンの後ろからは、まだ無理をさせては駄目です、と女性の声が聞こえる。
ただならぬ雰囲気を醸し出すシィンの息づかいが部屋に響く。
「イリア、が……」
シィンが表情を変えないまま言った。
「いなくなった……」
ぐらり、と視界が揺れる様な気がした。私は頭を抱えてベッドに突っ伏した。
いなくなった――? 何故? どうして? 一体どこへ?
頭の中に沢山の疑問が思い浮かぶが声にならない。やっとの事でで絞り出した声は、まるで自分のものではないかの様に震えていた。
「嘘……」
顔を上げる事が出来ない。シィンがどんな顔をしているか見る事が出来ない。顔を見なければ、これは嘘だと思えた。質の悪い冗談だと、思い込む事が出来た。
「嘘よね……?」
私の問いかけにシィンは答えない。
しかし沈黙がそれは事実だと物語っていた。
脳裏に悲しげな表情をしたイリアが浮かんだ。笑うでも泣くでもないその表情は――諦め。
彼は全てを諦めたかの様な表情で暗闇の中、一人立ち尽くしていた。その両手には沢山の白く美しい花が抱えられている。そしてその花を愛おしそうに抱いて、空に放った。
白い花びらがひらひらと舞い落ちる暗闇に、いつの間にかイリアの姿は消えていた。
「……最果ての、崖……」
直後に浮かんだ言葉を、私は発した。
最果ての崖――いきなり脳裏に浮かんだ場所。そこにいるという確証は無い。けれどそれは確信ともとれる勢いで、私の脳裏を走った。
「そうだ……最果ての崖だ」
私は顔を上げた。
ベッドの傍らにはシィンが立ち尽くし、その横では女性が心配そうな眼差しを私に向けていた。
「お願い! 私を最果ての崖に連れて行って!」
向かうべき場所はあちらの世界――現実世界の最果ての崖なのだ。その為にはもう一度シィンの【力】を借りる必要がある。
しかしシィンのエメラルドグリーンの瞳はただ虚ろに開かれていた。
「……シィン?」
私は、わなわなと震えるシィンの体側におかれた手に気付いた。思わず声をかけるとその体がびくりと震えた。そのままシィンはがくりと膝をついた。その瞳から、一筋涙がこぼれ落ちた。
「……駄目だ……」
絞り出す様にシィンは言った。腰を折り曲げ、こぶしを床に叩きつける。決して広いとは言えない部屋に、大きな音が響くと同時にシィンが呻く。
「あぁ……」
「シィン、どうしたの?」
バンバンと床を打ち付けるシィンの元へ駆け寄る。若干ふらついたが、体の痛みは消えていた。
「……もう、間に合わない……」
シィンの消え入りそうな声が届いた。間に合わない、とシィンは確かに言った。一体何が、と問おうとしたその時、シィンが顔を上げた。
大粒の涙を流すエメラルドグリーンの瞳と目が合った瞬間、彼の手が私の肩を掴んだ。物言いたげに涙を浮かべた瞳が見開かれた。
「…………っ」
しかし思い直したかの様に、シィンは俯き口を噤んだ。
同時に視界がぐにゃりと歪んだ。
女性の声がこだまし、遠くなってゆく。
シィンが私の耳元で囁いた。
「……イリアを、助けてくれ……」