第48話 少年の言葉
ふわふわと、空を飛んでいる様な感覚。温かい何かに包まれた私。ずっとこうしていたい、そんな気持ち。
そばにいる誰か。温かい誰か。一体誰なのだろう。あなたは――。
「――イリア……?」
「目、覚めた?」
聞き慣れた声――では、ない。
目を開けた私の目の前にあったのは、額に汗を流し、私を背負い歩き続ける少年の笑顔だった。
「あと少し、だから。もう少し寝てなよ」
だんだんと冴えてくる視界と思考。辺りは薄暗闇に包まれてはいるが、遠く東の山あいからは、太陽が覗いている。つまり、夜が明けようとしていた。
「……! 私っ……」
私の記憶が正しければ、確か私が気を失う前は真っ赤な夕日が辺りを照らしていた筈だった。それが今、夜が開けようとしている。それは、この少年が私を背負って少なくとも半日近くを歩き続けている事に他ならなかった。
よく見れば少年の額ばかりでなく、全身から汗が吹き出ている。息を切らし、時折片手で汗を拭っては、前を見つめ一歩一歩着実に進んでゆく。
「ねぇっ、もう下ろして? 私ならもう大丈夫だから」
ふぅ、と大きく息を吐いた少年は立ち止まる事なく、私の言葉に答えた。
「強がんなくて、いいよ。大人しくおぶさってて」
少年は全て見透かしているようだ。大丈夫だといったものの、今の私は歩く事はもとより、立ち上がる事すら出来ないかもしれない。
「……でも」
「本当にあと少しだからさ。いいよ」
私は少年におぶられたまま辺りを見渡した。一体どこに向かおうとしているのか分からないが、その景色には見覚えがある気がした。私は、この道を通った事がある――。
「最果ての、崖……」
そうだ、この道は最果ての崖へと向かう時に通ったんだ。
「惜しい」
私の呟きに少年が答えた。
「向かってるのはその方角だけど、ほら、目的はあんたの怪我を治してもらう事だから」
その言葉で私はやっと理解した。
怪我を直す為に赴く場所。それは怪我を治す【力】を持つあの女性がいる場所。あちらの世界でイリアを匿い、無惨にも処刑されてしまったあの女性の元へ、少年は向かおうとしているのだ。
「こっちではまだ生きてるからね」
そうなのだ。あの女性は生きているのだ。この世界はあちらの世界とは真逆、【力】を奨励しているのだから。
「でも――」
私は知ってしまった。この世界に、意味など無い事を。
「……イリアも、彼女に治して貰ったんだよ。肩の深い傷をね」
「え……」
私は少年の言葉を疑った。今、この少年は何と言った? イリアも治して貰った、そう言ったの?
「あなた、イリアを……知っているの?」
なぜ、この少年がそんな事を知っているのか。それは、その目で見ていたからではないのか。そばにいたからではないのか。
「イリアも彼女に会えて嬉しそうだったよ。自分のせいで死なせてしまったんだから、気持ちは分かるけど」
この少年はそばにいたのだ。イリアが傷をあの女性に治して貰ったという時に。もしかしたら、私と同じ様にあの女性の元へと、少年自身が連れて行ったのかもしれない。
「それだけでも、あそこを訪れた意味はあった」
同意を求める様に、少年は笑みを浮かべた顔を向けてきた。その笑顔は心からのものだ、と思う。
意地悪な笑みを浮かべたり、そうでなかったり。私をさらおうとしておきながら、今はこんなにも汗水たらしておぶり歩き続けている。
「あなたは、何がしたいの」
思わず言葉がついて出た。
もう頭の中だけで考えるなんて無理だ。考えても、考えても、私にこの少年の胸の内は分からない。それならば、聞くしかないのだ。
「私をさらおうとしたり、今度は助けようとしたり。意味が分からないわ」
少年はうんともすんとも言わずに歩き続ける。私も構わず続ける。
「それにあなたは、イリアの事も知っているのね」
尚も少年は無言を貫く。
「……私はあなたの【力】の真実を知っているわ。あなたの【力】が本当は、今を渡る事など出来ない事を」
ぴくり、と腕が反応した感触があったが、少年は口を開く事なく歩みを進める。
私には、少年の【力】が少年の言う様なものでない事は分かっている。だから知っているのだ――意味など無い事を。でも、もう戻る事も出来ない事も。
「お願い。教えて、全て」
しかし、少年の歩みは止まる事は無い。全てを話して貰う事なんて、無理なのかもしれない。そう思った瞬間だった。すぅっ、と息を吸う音が響いた。
「……あんたしかいないんだよ」
前を向いたままぽつりと呟かれた言葉。背中で揺られながら、私は耳を傾けた。
「イリアを本当に救えるのは」
そのまま少年は、まるで堰を切らしかの様に語り出した。
「……俺が、反帝国組織の一人として、イリアに助けを求めたんだ。あの日、サラ・エレインが処刑された日に、最果ての崖で」
反帝国組織では、ずっとイリアの持つ【力】を求めていたと、少年は言った。かつて、その【力】をもって当時の皇帝を、そして帝国を滅ぼした若者と同じ破壊の【力】を持ったイリアを探していたと。
「でもイリアの事を知ったのは偶然だった。勿論、イリアに破壊の【力】が現れたのは突然だったから、それはまさに俺達反帝国組織にとっては奇跡だったのさ」
それでは一体、どこでその【力】の存在を知ったのか。浮かんだ疑問は瞬時に解決された。
イリアに【力】が現れたのは、私が処刑された時――いたではないか、すぐ側に、反帝国組織の一人が。
「もしかして、あなたが……」
少年が笑った。私を乗せた背がゆらりと揺れた。
「そうだよ」
やはり、そうなのだ。この少年が自分のくみする組織に告げたのだ。
「捕まって、処刑目前だった俺にとっては沢山の奇跡が重なった。ずっと探していた【力】を持つ人間を見つける事が出来たし、あの混乱で俺は難なく逃げる事が出来たからね」
一度は見失ってしまったけれど、と少年は続けた。
「イリアは初めは迷っている様だった。でも、俺達に会って、俺達の事を知って、【力】を使う事を決めてくれた」
そこで少年はふぅ、と息をついた。それまで休む事なく進められていた歩みが止まる。額からは一筋汗が流れたいた。
「……和解の議の前日にあんたをさらおうとしたのは、謝るよ」
「どうして、私を」
遮る様に、少年は言った。顔を向ける事は無い。
「まだあの時は、早かった。あんたをイリアに会わせる訳には、いかなかったんだ」
何故、と問おうとした瞬間、再び背中が揺られた。私とイリアとを会わせてはいけなかった理由など、私には見当がつかない。そんな私を気にも止めずに少年は続ける。
「その後は分かるだろ? 和解の議は失敗、戦争の引き金となり、そして今だ」
イリアの【力】は持たざる者達を、いとも簡単に薙ぎ払った。それはあの【力】を目の当たりにした自分自身が分かっている。あまりに強力で凶悪な【力】に持たざる者達が太刀打ちなど、出来る筈も無かった。
「イリアは俺達の為に、この国を終わらせる為に何度も【力】を使ってくれた。……嫌な役だったと思う。頼んだ俺が言うのもおかしいけれど、つまりは沢山の人を殺めたわけだからね」
そこまで聞いて、何だか胸が痛んだ。
私が処刑され手に入れた【力】を使い、沢山の人を殺めてしまったイリア。彼が優しい事は私がよく知っている。その彼が、と考えると涙すら出そうになってくる。
「どうして、今さら私を助けるの」
私ははじめから疑問に感じていた事を口にした。少年が自嘲気味に笑う声が聞こえた。
「……今さら、か。そうだね。でも、今のこのタイミングしか無かった。もしこのタイミングを逃せば――」
少年が口をつぐむ。沈黙が、いつの間にか高くまで登っていた太陽が照らす辺りに広がった。
「イリアは死ぬよ」
一瞬、あまりに唐突に発された言葉が理解できず、頭が混乱する。
イリアが死ぬ、と今少年は言ったのだ。混乱する頭の中を整理しようと試みるが、いきなり早鐘を打ち始めた心臓が、それを邪魔する。
「ど、どういう事?」
声が震えた。少年の肩に捕まる手も震える。きっとその手の震えは少年に伝わっているだろう。しかしそれを抑える事は出来なかった。
「途中まで俺も知らなかった……今さらそんなの言い訳に過ぎないけれど。でも、だからこそ、今あんたの【力】が必要なんだ」
「私の、【力】――?」
少年の肩越しに、目的地の女性の家が見えた。少年の歩調が速まる。
「イリアの破壊の【力】は――病だ。使う度に、その【力】を持つ者の体を蝕んでゆく」
「病……!?」
イリアのあの【力】が病? だから私の【力】が必要だと?
少年が続ける。
「【力】はもともと生まれ持っているものだ。【力】を持たずに生まれた者が、その途中で何らかの【力】を手に入れるなんて、本来なら有り得ないんだ。あんたは聞いたことがあるかい?」
少年が言う事は最もだった。今までイリア以外でいきなり【力】を手に入れた人間の話など聞いた事が無かった。それは病だからだというのか。
「イリアの【力】は必要だった、この国を正す為に。そしてそれもやっと、叶った。本当はまだ、持たざる者達の反乱に備えていたいところだけど……イリアの体はもう限界に近付いている」
少しだけ間が空いて、俺は、と少年は小さく呟いた。耳を傾けなければ聞き逃してしまいそうな程の、小さな声だった。
「イリアには死んでほしくない」
その時私は少年の背が震えている事に気付いた。後ろから顔を覗き込むと、少年のエメラルドグリーンの瞳が潤んでいた。しかし少年はすぐに覗き込む私に気付いて、何かを振り払う様に頭を振って言った。
「さぁ、着いた。下ろすよ」
そう言うと同時に地面に下ろされた私の体。忘れかけていた痛みが全身を走った。
「うぅ……っ!」
「今、彼女を呼んでくるから待ってて」
そう言い残して少年は、あの女性の家へと入っていった。
晴れ渡った空の下で、私は動く事も出来ずにただ横たわっている。空を見上げながら、少年の言葉を頭の中で反芻させていた。
イリアが死ぬ――。
「やだ……っ!」
イリアが死ぬなんて、そんな事考えてもいなかった。私は、ただあの【力】で人を殺める様な事をしてほしくなくて、もうこれ以上その手を汚してほしくなくて、その為に追っていた。それが、そんな事に――。
涙が溢れる。
嫌だ、嫌だ。
死んでほしくない。
死なせたくない。
「大丈夫ですかっ!」
その時、ガチャリと扉が開く音と共に、あの女性の声が響いた。
肩までの栗色の髪をなびかせ覗き込んだその顔は、あの時私の話を聞きスープを飲ませてくれたあの女性に変わりなかった。
女性の細い指が私に触れた。怪我の具合を確かめる様に、優しく。
「こんなに酷い怪我を……。今、治します」
言葉と同時に、女性の手から何か温かいものが、私の体に流れ込んでくるのを感じた。それはみるみる内に全身に広がり、それまで感じていた痛みや息苦しさは嘘の様に消えていった。
「もう、大丈夫ですよ」
目の前の女性が柔らかく微笑んだ。
「でもまだ動いては駄目です。安静にされないと」
起き上がろうとする私を女性が制止する。振り切ろうとするが、力が入らなかった。痛みや苦しさが消えた今、すぐにでもイリアの元へ向かわなければいけないのに。
「でも、早く行かないと……。イリアが、イリアが……!」
そこまで言いかけて、いきなり体が宙に浮いた。すぐ目の前に少年の顔がある。私の体は少年に抱きかかえられていた。
「まだその体じゃ、満足に【力】を使う事は出来ないよ。まだイリアはあれ以上【力】を使う事が無ければ大丈夫だから、あんたはまず体を休めててよ」
「でも……っ!」
少年が微笑んだ。優しい笑みだ。決して意地悪くして言っているのではない、と言っている様な気がした。
「俺は一度戻らなきゃいけないけど、またすぐに迎えに来るよ。あんたの事は、誰にも言わずに来たから」
じゃあお願いします、と少年は女性に告げた。そのまま少年は私を抱えたまま家の中に入って行き、私をベッドの上にに静かに下ろした。
少年が部屋を出ようと踵を返した。呼び止めようとして、私はこの時初めて少年の名前すら知らない事に気付いた。
「ま、待って!」
振り向く少年。エメラルドグリーンの瞳が私を見る。
「あなたの、名前は? すぐに来てくれるのよね?」
ふわりと少年が笑った。
「俺はシィン。シィン・リオーネ。約束するよ、すぐ迎えに来る。だからその時は、イリアを助けてくれよな。チェリカ・ヴァレンシア」
シィンと名乗った少年は、そう言い残して部屋を後にした。
私の名を知っていたシィン。今までの話はきっと真実なのだろう。私に嘘をつく理由など無いだろうし、潤んだあの瞳を信じたかった。
きっと全てを話してくれた訳では無いだろう。そうでなければ、残った疑問がまだあまりにも多すぎる。
それに、まだシィンは自分の【力】の真実を自ら語った訳ではない。けれど、私のシィンの【力】に対する考えは、恐らく当たっているだろう。
「眠ったほうが、いいですよ」
いつの間に語ったベッドの傍らに、水を張った桶を持った女性がいた。濡らしたタオルで女性が私の顔を拭う。タオルにはべっとりと血がついた。
「……ありがとうございます」
「いいんですよ。私に出来る事をしただけです」
優しい女性の柔らかな微笑み。その顔を見て悲しくなった。
あちらの世界では無惨にも処刑されてしまった女性が、今目の前で微笑んでいる。――イリアはどう思っただろうか。
一通り私の傷跡を拭いてくれた女性は、水桶を持って部屋を出て行った。
「……イリア……」
お願い、もう破壊の【力】は使わないで。お願いだから――。
柔らかな寝台の上で、私に出来る事は祈る事だけだった。