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第35話 妹


 ユナは俺の妹だ。たった一人の家族だ。幼い頃に両親が流行り病で死んでから、頼れる者はお互いだけだった。同じ病に苦しみながらも奇跡的に助かった妹には、発作という後遺症を残したけれど、それでも妹はいつも笑顔が絶えなかった。いつも、笑いかけていてくれたんだ。


 どうしてすぐに迎えに行かなかったのだろう。そんな状態じゃ無かったなんて言い訳だ。あの日、【力】を使って帝都を壊滅させ、皇帝を、人々を殺してしまった後、俺は戻るべきだったのだ。たとえ動く気力が無くても、ユナに大罪人の妹という汚名を着せてしまった時点で。


 俺はユナを、たった一人の家族を――。



 見殺しにしたも同然だ。










「ユナ……っ!」


 目が覚めると、そこはいつもの寂れた聖堂だった。俺が崩壊させた、俺の世界のミュラシアの聖堂ではない。シィンの【力】で行き来可能なもう一つの世界の聖堂。【力】は奨励され、持つ者と持たざる者とが共存する、目標としていた世界に、俺はいつの間にか戻って来ていた。


 そうだ、俺は和解の議で【力】を使ったんだ。和解の議が円満に終わればなんて、俺が甘かったんだ。その甘さがユナを――。


 顔を突っ伏して妹を思う。発作を起こしていた。傷だらけだった。俺の妹だったせいで傷つけられたんだ。【力】を持たざる者達に。


「ユナ……」


 俺が多くの人を殺したと知ってどう思っただろう。俺がそんな事する筈無いと突っぱねただろうか。それとも恐ろしいと思って泣いただろうか。俺の事を恨んでいるだろうか。こんな兄を持ってしまった自分の運命を呪っただろうか。


 その時、唐突に胃が持ち上がるのを感じた。強烈な吐き気が襲いかかる。


「ぐ……っ!」


 咳をしながら、登ってくる胃液を堪える。なかなか治まらない咳と吐き気に、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。


「はぁ、はぁ……」


 ようやく咳が止んだ頃には、激しい脱力感と疲労感に襲われた。冷や汗で服が汚れている。伝う汗を拭い、呼吸を整えていると、バタバタと足音が聞こえてきた。足音はだんだんと近付いてくる。


「イリアっ!」


 部屋の扉が勢いよく開かれると同時に現れたのはシィンだった。髪はボサボサで寝間着姿だ。咳で起こしてしまったのかもしれない。シィンはベッド脇に近付くと、さも心配そうに視線を向けてきた。


「大丈夫か? すごく咳込んでたみたいだけど……」


 不安げな表情に似合わないボサボサの髪が何だか可笑しかった。


「あぁ……。悪い、起こしたな……」 


 ボサボサの髪を見る俺の視線に気付いたのか、シィンは跳ね上がった髪の毛を撫でつけながら恥ずかしそうに笑った。


「いや、いいんだ。それより……」

「大丈夫だ。少し、むせただけだから」


 シィンは、そっか、と呟き今度は視線を落とした。その先には既に処置された肩の怪我があった。和解の議に乱入してきた兵士に射られた矢は、貫通こそしていなかったが、深く捻れる様に食い込んだ。その怪我の具合をシィンは心配しているのだ。


「怪我、治す【力】を持っている人はいないんだ」


 申し訳なさそうに俯いたシィンは、ごめん、と続けた。


「お前が謝る事じゃないだろ。心配いらない。……シィン」

「……うん?」


 俺の呼びかけにシィンは顔を上げた。


「ユナは、どう……なった」


 ユナ、と発した瞬間シィンの顔は暗く陰り、再び深くうなだれてしまった。そんなシィンの反応は俺の最悪な想像をかき立てた。


「生きてるよ」


 俯いたままシィンは言う。その言葉に救われる思いがした。生きてる――ユナは生きている。しかし、そんな思いはシィンが後に続けた言葉でかき消された。


「でも、目を覚まさない。意識が戻らないんだ」


 頭を強く打たれたのかもしれない、とシィンはぼそりと呟いた。


「……そうか」

「ごめん」


 シィンが再び詫びる。俯いたまま顔を上げようとしないシィンの表情は暗い。しかしそれ以上に幼かった。本来なら、平和な世界で、刺激も無い同じ様な生活の繰り返しに飽き飽きしながら、文句の一つでもたれている年頃だろう。【力】の質もあるだろうが、ダリウスの補佐として働くなんてシィンには重すぎる筈なんだ。


「イリア……?」


 口を閉ざす俺を不思議に思ったのか、シィンが少しだけ顔を上げ聞いた。心なしか、エメラルドグリーンの瞳が潤んでいる様にも見える。


「どうした?」


 シィンのまだ幼さを残した声を聞き、目を閉じ思う。今、立ち上がらなければ。今こそ、俺は立ち上がらなければいけない。怪我の痛みなど捨て置け。新しい世界をこの【力】で創り出せ。【力】を持つ子等が平穏に生きていける世界を、この【力】で――。


 俺は怪我を負った肩を押さえ、上半身を起こした。シィンが慌てて俺の体を支えようとしたのを制止する。


「大丈夫だ。一人で、立てる」


 力の入らない足を奮い立たせる。肩からの出血が酷かったのか、軽く目眩がしたが、痛みは動かさなければさほどでも無かった。シィンはエメラルドグリーンの瞳を心配そうに向けている。


「ユナはどこに?」


 シィンは俺の問いかけに幾分戸惑いを見せている。肩の怪我と俺の顔とを交互に見ながら、シィンは言った。


「向こうの部屋だよ。でもまだ動かない方がいい。まだ安静にしてた方がいい、お互い」

「あぁ」


 俺は一歩、そしてまた一歩と足を踏み出した。シィンがやれやれといった表情で見るのが視界に入った。


「顔を見るだけだ。それだけで、いいんだ」


 俺は後ろをついて来るシィンに話しかけた。シィンは何も答えなかったが、もう止める事も無かった。


 部屋の外はしんと静まり返り耳が痛い程だ。小窓から月明かりが覗いている。その時俺はようやく今が和解の議の開かれた当日でないことに気付いた。確かあの時は雨が振り出しそうな曇り空だった。月が出た晴れた空を見ると、俺は少なくとも一日以上眠っていたのかもしれない。


 シィンに、その部屋だよ、と指さされた部屋に入る。俺の眠っていた部屋と同じ造りのその部屋で、ユナは質素なベッドに横たわっていた。寝息すら、聞こえてはこない。死んだ様に眠るユナの傍らに立ち髪を撫でる。そこかしこに包帯が巻かれた妹の姿は痛々しかった。


「ごめんな、ユナ。すぐに迎えに行ってやらなくて、ごめんな」


 小さな体に負わされた多くの怪我の痛みを思い胸が痛んだ。俺のせいだ、それが事実だった。頬を撫でる。熱は無いようだが、目を覚まさないという事はやはり頭を強く打たれた可能性が大きいという事なのだろうか。


「ユナ、お前が目を覚ます頃には――きっと」


 世界を変えていてみせる――俺は心の中でユナに語りかけた。ユナは少しも動かなかった。


「イリア、そろそろあんたも休んだ方がいい」


 ドアの前で待っているシィンの低すぎず高すぎない声が暗闇の中響いた。


「……分かった」


 俺は自分の手をユナの頬から離し、後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。







 部屋に戻ってからもシィンは何故か傍らにいた。俺がまた無理して動きだすかもと警戒しているのだろうか。


「眠くないのか?」


 俺は傍らに立つシィンに尋ねた。シィンは少しだけ微笑んだ。その微笑みだけはいつものどの表情よりも大人びて見えた。眠くないのか、それとも眠れないのか――。邪推だと思いつつ、そんな事をぼんやりと考えていた俺に睡魔が訪れるのには、そう時間はかからなかった。


「お休み、イリア」


 遠ざかる意識の中、俺はシィンの声を聞いた。シィンは一体どんな経緯でこの組織と出会ったのだろう。やはりダリウスの【力】なのだろうか。こちらの平和な世界で生きるという道も、シィンの【力】を持ってすれば簡単に選べただろうに――やはり生まれた世界で生きたいのだろうか。




 思考が途切れるまで数々の疑問が浮かんだが、それを口に出す前に視界は暗転した。




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