第33話 決裂
その男は和解の議開始時間ぎりぎりにその場に現れた。レイヴェニスタ帝国の紋章が刺繍された純白のマントを翻すその姿は雄々しく、皇帝亡き今この帝国を支える主柱として堂々たるものだった。
ダリウスが立ち上がる。それに合わせて俺達も立ち、その男率いる一団に一礼をした。ダリウスが口を開く。
「キール将軍、この度はかような場を設けて下さり、感謝致します」
この男がキール・シャロン将軍。噂に聞いていた事はあったが、間近で見るのは初めてだった。急いで来たのかその呼吸は荒い。
「いや……こちらこそ、貴公等にこの話を受けて貰える事が出来て感謝している」
ダリウスは微笑を浮かべ席へとついた。帝国側の一団はその向かいに座り、俺達は丁度対峙する様な形になった。心なしかあちらは緊張している様な気がする。今まで虐げ、処刑してきた者達と同じ者を目の前にしているのだから無理もないか。いつも聞こえる賛美歌も今日は聞こえなかった。和解の議の為に今日は聖堂内への関係者以外の立入を禁止しているからだ。
静まり返ったそこで始めに口を開いたのはダリウスだった。
「何故今更、この様な場を?」
その物言いは決して責め立てているものではない。純粋な、それは質問だった。
「……我々が貴公等に今までしてきた暴挙、許される事で無かった事は重々承知の上だ。しかし、私は亡き皇帝陛下に代わり、民達を守らねばならない」
キール将軍と目が合った。そこには鋭い眼光が宿っていた。俺は思わず目を逸らした。
「私共が、何か……そう例えば戦でも起こすとお考えなのですかな?」
「……それもまた過去にあった事実」
ふむと髭を撫でるダリウス。尚も問答は続く。俺もシィンも、そしてキール将軍率いる兵士達も、完全にこの場の傍観者だった。両者は巧みに言葉を選び、相手の心情を推し量りながら会話している。
「今まで私達の同朋がどれだけ命を奪われたか、貴方ほどの地位の方ならご存知の筈でしょう」
問答の末、ダリウスから発された言葉は厳しいものだった。キール将軍は俯き目を伏せた。何の罪も無い者達を処刑してきたという罪悪感に苛まれているのだろうか。横に並ぶ兵士達は不満げにこちらを睨み付けている。その中の一人がぼそりと呟いた。
「貴様だって俺達の仲間を殺しただろう」
その言葉は俺に対する言葉だった。呟いた男は憎悪に満ちた視線を、真っ直ぐ俺に向けている。それは逸らす事を許さない視線。そして今にも兵士の怒りが爆発しそうになった時だった。キール将軍は、口を挟むな、とでも言う様に兵士を制し立ち上がった。
「どんなに詫びようとも、我々が奪ってしまった命は還らない。……それでも私は詫びよう、この国が今まで貴公等にしてきた事を」
そう言ってキール将軍は深々と頭を下げた。皇帝亡き今この帝国の頂点ともいえる男が、己の非を詫び、頭を下げている。それは本来有り得ない事だった。しかし今、実際に起きている。部下の前で、何の階級も持たない俺達に。
「し、将軍……!」
「こんな奴らに頭を下げるなんて」
「頭を上げて下さいっ、キール将軍!」
兵士達がざわめく。しかしキール将軍は頭を深く下げたまま上げようとはしない。民の為には、自分の立場もプライドも関係無いという事なのか。
「今更……虫が良すぎますな」
頭を深く下げる男の前でダリウスは呟いた。深い溜め息をつき、窪んだ目で将軍を見据えている。兵士達が音を立てて立ち上がった。彼等のプライドが許さないのだろう。自分達の上に立つ者が、今まで虐げてきた者に頭を下げるという、そんな事実に。
「しかし」
ダリウスは続ける。
「その言葉を私達は待っておったのです」
そう言うと同時に立ち上がったダリウスは、顔を上げて下さい、と告げキール将軍に手を差し伸べた。その表情は穏やかだ。
「私共は信じると致しましょう。貴方達と共に、新しい世界を築いてゆけると」
顔を上げたキール将軍にダリウスは優しげな笑みを向けた。
「それでは……」
不安げにもう一度答えを求めるキール将軍。ダリウスはにこりと微笑んだまま頷いた。
「共に生きて参りましょう」
ダリウスのその言葉に、その表情に安堵したのだろう、キール将軍は初めて硬い表情を崩した。
「……感謝する」
差し伸べられた老人の手を取ろうと、キール将軍は手を伸ばした。【力】を持つ者と持たざる者が今まさに手を取り合おうとしている。目指すは共存への道。無事和解の議は終了した――その場にいる誰もがそう確信したその時だった。
手を取り合うその瞬間は、激しく聖堂の扉が開けられた音と多くの激しい靴音によって邪魔された。瞬時に皆が何事かと扉へ視線を向ける。扉を無残に打ち破り、現れたのは軍服を纏った数名の兵士達だった。
「何事だ! 聖堂の立入は禁止している筈だ!」
突如現れた兵士達はその問いに答えようとはしない。同席していた兵士達はお互い顔を見合わせざわついている。帝国の人間達は予期せぬ来訪者に驚きを隠せない様子だった。
「出て行かないか! 神聖な場を汚す気か!?」
キール将軍の声が響いた。しかし兵士達は動こうとしない。何なんだ? 一体こいつらは――。
「キール将軍、貴方は亡き陛下を冒涜しているのですか?」
現れた兵士の中の一人が声を上げた。
「こんな奴らと……、我々の仲間達を、家族を、友人を殺した者と和解しようなんて……」
「こいつらは葬らなければならない! 世界の調和を見出す悪ではないですか」
「考え直して下さいっ!」
それを皮切りに次々と口を開く突如現れた兵士達。俺達に向けられた怒りは今にも爆発しそうだ。和解の議に反発した兵士達が押し掛けてきたのだ。流石にキール将軍も焦りを隠せない様だった。
「将軍は逃げています! 我々は戦わなければいけないのではないですか!?」
兵士達の視線が俺達に向けられる。今にも襲いかかってきそうな、鋭い視線だった。
「逃げているだと……!?」
キール将軍が叫ぶ。その表情には怒りが満ちている。キール将軍が率いてきた兵は、今や暴徒と化しそうな仲間達から将軍を守るべくその前に立ち塞がった。しかし兵士達に怯む様子は無く、寧ろ興奮し将軍にすらとってかかりそうな勢いで言った。
「将軍は間違っておられます」
「我らの仲間達の敵を!」
「友や家族の痛みを等しく奴らに!」
語気を強めて発すると同時にその目は俺を睨み付けていた。そうだ、彼等の仲間達の命を奪ったのは俺だ、否定などしない。けれど――。
「……奪われる痛みは俺達だって同じだろ」
将軍と兵士達の応酬の中、ぼそりと呟いたのはシィンだった。ダリウスは、これ、とシィンに注意を促したが、兵士達はその言葉を聞き逃さなかった。ギロリとシィンを睨み付け、鼻息を荒くしている。
「黙れ! ガキがぁ! 貴様等に口を出す権利など無い。貴様等は駆逐されるべき存在なんだからな」
シィンは俺の方を見て肩をすぼめてみせた。なんて馬鹿で幼稚なんだ、シィンのそんな声が聞こえた様な気がした。駆逐される存在――そんなの誰が決めた? 田畑を荒らす獣の様に、材木を食い散らす害虫の様に駆逐されるべき存在だと、一体誰が決めた? 彼らはただ懸命に生きているだけなのに。
他の者に目をやるが、彼等は微動だにしていない。怒って当然の言葉を浴びせられながら、誰一人として立ち上がりすらしない。シィンと目があった。こんなの慣れてる、と今度は聞こえない様に唇だけを動かし、ふっと笑った。それを見て胸が痛んだ。
「キール将軍、そこをどいて下さい!」
いつの間にか兵士達は携えていた剣を鞘から抜いていた。目は血走っている。
「お前達……帝国の名に泥を塗るのか!?」
キール将軍は武器を持ってはいなかった。この和解の議を成功させる為に彼は、この場に来たのだ。それは間違い無かった事の証明だった。
「将軍こそ、このレイヴェニスタを辱めようとしているではないですか! ……大罪人の家族を匿うなど……!!」
「なに……」
どくん、と心臓が大きく脈打つのを感じた。大罪人の家族――その言葉に俺の体が反応したのだ。今何と言った?
「お前達……まさか……」
キール将軍の表情が陰る。嫌な予感がした。その時誰かが扉に向かって合図をしているのに気付いた。扉に目をやると何者かが現れる気配がした。
「我等と同じく、奴らと和解など馬鹿げていると思っている者が、数多くいるようです」
乱れた呼吸と、小さな咳が聞こえた。それとずるりと何かを引きずる様な音。
「馬鹿な真似を……!」
「馬鹿な事をしているのはキール将軍、貴方です。大罪人は家族とて同罪!」
隣に座っていたシィンがガタンと音を立てて立ち上がった。
「おい……、あれは――」
その声は震えていた。新たに現れた兵士達の陰に見え隠れするそれはずるずると無理矢理引きずられている。まるでボロ布の様に、兵士達はぞんざいに扱い、キール将軍の前にどさりと置くと、小さくうずくまったそれは咳き込んだ。
「早く火あぶりにしましょう。その次は奴らだ」
シィンがそれと俺とを交互に見て狼狽えている。ダリウスは窪んだ目でじっとそれを見続けている。その体が小刻みに揺れているのは、きっと気のせいではない。
「ユ……ナ――」
喉をヒューヒューと鳴らして咳き込み、ボロ布の様に扱われていた哀れなそれは――俺のたった一人の家族。俺の妹であったばかりに、俺のたった一人の家族であったばかりに、その小さな体には数多くの傷が負わされていたのが、遠目にもはっきりと見えた。
目の前が暗くなっていく。顔は熱いのに、どうして指先はこんなに冷たいのだろう。この感情はなんだ? 怒りか、それとも悲しみか? 違う、後悔だ。こんな事になるならもっと早く――。そう思うと同時に、俺の足は動き出していた。
「ユナ……!」
キール将軍の目の前でうずくまるその小さな体を静かに抱き上げる。荒い呼気が頬にかかった。触れた肌は熱く、震えている。
「あぁ……」
俺は迷ってはいけなかった。逃げてはいけなかった。たがら繰り返したのだ。だから自分のせいでまた傷付けてしまったのだ。
「イリア! 危ないっ!」
刹那、シィンが叫んだと同時に肩に痛みが走った。危うくユナの体から離しかけた手に力を入れる。痛みの走った箇所に目をやるとそこには矢が刺さっていた。鋭い鏃ににえぐられ服には血が滲み、赤く染まっていた。
「イリア・フェイトを殺せ!」
ユナの体を抱きかかえたまま辺りを見渡した。ある者は弓を掲げ、ある者は剣を振りかざし、にじり寄って来ている。キール将軍等は武器を持たずに彼等を牽制してはいるが意味を為してはいなかった。
小さく傷だらけのユナの体を抱き締めた。ごめんな、ユナ――俺が迷ったばかりに。でも、もう迷わない。
「……ダリウス殿、……シィン」
兵士達に行く手を阻まれ身動きの取れないダリウスとシィンに呼び掛けた。ダリウスとシィンが兵士達の合間から顔を覗かせた。伝えよう、俺の決意を。もう、迷わないと――。
「和解の議は――閉会だ」
兵士達を牽制していたキール将軍が勢いよく振り向いた。悲しげな表情を俺に向け、その瞳を閉じた。そして全て諦めたかの様に俯きうなだれた。何かを呟いた様だったがその声は聞こえなかった。
「……もうこの世界を血を流さずに変えることは、不可能だ」
ダリウスとシィンは俺の言わんとした事を察したようだ。兵士達がざわつき怒声を上げた。一人の号令と共に鏃が、刃が降り注ぐ。
俺は目を閉じた。熱いものが体の内側から湧き上がってくるのが分かる。今、それを解き放とう。二度と大事な人を失わない為に、彼等に安住の地をあたえる為に。
「恨み事は、後で聞いてやる」
俺の体から溢れ出した【力】は、一瞬の内に聖堂を包み込んだ。その場にいた人間達は声を出す間も無くその【力】に飲まれていった。久しぶりに大きな【力】を使った反動なのだろうか、ふっと立ち眩みを起こし倒れそうになった俺の体と抱えていたユナの体は、いつの間にか後ろに立っていたシィンに支えられた。
「シィン……」
シィンは何も言わず微笑んでいる。そのまま俺の意識は混濁した。