第17話 再訪
サラはよく笑う女だった。
俺がいつも暗い顔をしているから彼女なりの配慮もあるかもしれない。せめて私だけでも笑っていよう、と。しかしそれだけではないだろう事も分かっていた。よく笑うのは彼女の生まれながらの気質だろう。チェリカもよく笑う女だったが、記憶に残る最後の表情が泣き顔だったせいか、ひどく新鮮な気分になった。
そしてサラはよく喋った。色々な話を聞いた。幼い頃に流行り病で両親を亡くした事。自分には妹がいて、かつてはここに一緒に住んでいた事。しかしその妹は数年前に死んでしまった事。
そして事故で両目の視力を失った事。どんな事故だったのかは分からない。彼女は事故について詳しくは語らなかったし、俺も聞かなかった。とにかくサラはよく喋った。俺の話した量などサラの話した量の半分にも満たなかっただろう。しかも自分から話すわけではない。サラに聞かれた事に答えるだけだ。
それは出身地の事だとか、幼い頃の事だとか、妹の事だとか、そしてチェリカの事だった。聞かれた事に答える事は何でもない事だったが、チェリカの事を話した時だけは言葉に詰まった。チェリカを思い出し話す事は、同時にあの日の出来事を思い出す事だったからだ。
俺はに口下手というわけではないが、別段喋りが上手いというわけでもない。しかしサラは俺の話を聞き、笑い、怒り、悲しんでくれた。
サラはやはり最初思った通り、逞しい女だった。盲目であることに不便を感じさせない生活をしていた。今は行っていないようだが、帝都は勿論、更に遠いミュラシアという町までも歩いて行くというのだから。
「イリアさんっ。これどうですか?」
何やら抱えてどこかから帰って来たサラにやけに弾んだ声で話しかけられたのは、あの事件から一週間程経ったある日の事だった。
「それ、何だ?」
俺が聞くと、サラは抱えていた物を広げて見せた。
「マントです。巡礼者が着るものなんですけど……ほら、フードが付いているから顔が隠れるんですよ」
そう言って、黒いフード付きのそのマントを裏、表と俺に見せた。
「家の中にずっといるのか退屈じゃないですか? これを着れば町にも行けますよ。流石に帝都はやめておいた方がいいかもしれないですけど」
つまりサラは、見つかれば捕まってしまう為に外に出れない俺に、顔まですっぽりと隠す事の出来るマントを手に入れてきてくれたのか。
「サラ、俺は外に出るつもりはないよ。ましてや、町に行くなんて、俺には出来ない」
多くの人々を殺め、この国の皇帝までも殺めてしまった俺には、もう人前に出ることは許されない。いや、俺が許さない。太陽の光を浴び、町の喧騒の中に飛び込み、人間らしく生きる事など――。俺はただひっそりと生き、自分の犯した罪を生きて背負い、そして人知れない場所で死ねばいい。
「イリアさん」
サラは悲しげな顔をした。
「ありがとう、サラ。俺の為に色々してくれて」
実際なぜこう親身になってくれるのだろうか。【力】を持った者同士だから? おれの境遇を哀れんだのか? そう考えを巡らせているといきなりサラに腕を引っ張られた。
「なっ……なにを」
サラは腕に抱えていたマントを俺に強引に羽織らせた。フードもしっかりとかぶらされ視界は狭くなった。一瞬の出来事に唖然とする俺の手を掴みサラは言った。
「行きましょう」
俺の手を掴んだまま近くに置いてあった杖をもう片方の手で取り歩き始めた。サラがドアが開けると太陽の光が差し込んできた。
「サラ、待てって」
俺の言葉も聞かず、ずんずんと進む。とても視力を失っているとは思えない。手を引かれるまま、太陽光の降り注ぐ外へと出た。眩しさに目を細める。サラは何も言わない。
「サラ……」
声をかけてもやはりサラは答えない。もうこうなったら何を言っても無駄だ。俺はそう思い、為すがままになった。
どんどんサラの家から遠ざかる。どこに向かっているのかはもう分かっている。というか、こっちにはあれしかない。俺達は崖に向かっていた。サラは、俺をチェリカの墓へと連れていこうとしているのだ。あの日以来一度も行っていないあの墓へ。
「サラ、もう手を離してくれ。もう、逃げないから」
俺の手を引き歩き続けるサラにそう声をかけるとサラは立ち止まり振り向いた。そして手を離し微笑んだ。
「行きましょう」
その場所から見える景色はあの日と何も変わっていなかった。しいて言うなら あの時海を輝かせていた光は朝日の光で、今はもうそろそろ日が沈みかける頃の時間帯の日の光であることだった。それ以外は何ら変わらない。輝き凪いだ海もこの墓標も。
「……?」
俺はチェリカの墓標より更に崖の淵にある割と大きな石に気付いた。それはまるで墓標のように地面に置かれていた。サラなら何か知っているだろうか?
「サラ」
呼びかけるが返事はない。さっきまで後ろにいたのに。
「まさか……」
俺はサラがもしかしたら足を踏み外したのかもしれないと思い、慌てて崖下を覗き込んだ。幸いな事にそれらしき人影は眼下の海にはなかった。ほっとため息を漏らした時だった。
「イリアさん」
後ろから俺を呼ぶ声がした。振り向くとそこにはサラがいた。その腕には沢山の白い花が抱えられていた。
「サラ、その花をどこで?」
それは死者を弔う為の花だった。名前は忘れた。その花を墓に供え、そしてその死を悼むのがこの国の風習だった。
「あっちです。昔から沢山咲いているんです」
そう言ってサラが指差した方向には確かに白い絨毯が広がって見えた。
「これ、イリアさんの分です」
サラは抱えていた花の内の半分を俺に渡した。
「こっちは私の分」
サラは残り半分の花を抱えて微笑むと、俺の前に進み出た。そしてあの石の墓標らしきものの前で立ち止まりしゃがみこみ花をおいた。
「それ、誰かの墓なのか?」
「はい。妹と……友人の墓です」
そう言ってサラは手を組み、祈りを捧げた。俺もサラに渡された白い花をチェリカの眠る墓に供えた。目を閉じチェリカの事を想った。
「チェリカさん、きっと喜んでます」
沈黙を破って先に喋り出したのはやはりサラだった。立ち上がりスカートについた土埃を払いながら続けた。
「イリアさん、前に夢でチェリカさんが俺の事恨んでいたって言ってましたよね」
俺は返事をする代わりに頷いた。
「でも私、違うと思います。それはイリアさんがチェリカさんの事を助けられなかった事を後悔する気持ちが、夢に表れただけだと思うんです。チェリカさん、きっと嬉しかったと思います。それにきっと悲しかった」
サラは俺の目の前に立ち、俺がかぶっているフードを下ろした。視界が広くなった。サラの手が俺の顔に触れた。ひんやりとした感触が伝わってきた。
「自分を助ける為に、海を渡ってきてくれた事、きっと嬉しかったと思います。でも、そのせいでイリアさんに大怪我を負わせてしまった事……」
サラの手は俺の顔から、あの日貫かれた胸におりていった。
「きっと悲しかったと思います」
そう言ってサラは俺の体から手を離し、石の墓標へと向き直った。そしてもう一度手を組み祈りを捧げてから言った。
「私、先に帰ります。食事の支度があるので。イリアさんはゆっくりしてきて下さい。チェリカさんの所に来るの、久し振りでしょう?」
そして後ろを振り返ると、相変わらず盲目である事を感じさせない足取りで遠ざかっていった。
「サラ」
俺は後ろから大きな声で言った。サラは振り向き首をかしげる。
「ありがとう」
サラはにっこりと笑ってまた歩き始めた。
サラが帰ってからも俺はただずっとその場に立っていた。日が沈み一番星が空に輝き始めてからも。あの日聞こえたチェリカの声。泣かないでと俺をなぐさめた声。もう一度聞こえないかと耳を澄ましているが、聞こえる事はない。やはりあれは幻聴だったのか。ちょっとした期待はあった。もしかしたら、と。でもやっぱり、チェリカの声は二度と聞けないんだ――。
俺は足元にあった石を拾った。そしてもう二度と逢えない人の名を十字に組まれた墓標に刻んだ。
「チェリカ……また来るから」
俺はフードを被り直し、墓に背を向け歩き出した。遠くにぼんやりと家の明かりが見えた。きっと夕食の準備をしたサラが待ちくたびれているだろう。その時、ふっと風が俺の頬を撫でた。一瞬後ろを振り返ると、その風で墓に供えていた花の花びらが舞っていた。
歩きながらぼんやりとあの花の名前は何だったろうと考えたが、花の名前は思い出せなかった。