第13話 出会い
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。一体どれくらい歩いたのだろう。分からない。何も――。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。俺に一体何の【力】が現れたというんだ。あの惨劇――、全て俺がやったのか。皇帝を殺し、広場に集まった人々を殺し、都を血と炎の海へと変えたのは……俺なのか。
お母さんを返せっ! 人殺しっ!!
この……人殺しめ! 皆死んだぞ。都に住む民達も、仲間達も、皇帝陛下も!
何も聞こえないはずの耳に、あの時の子供と兵士の声が蘇った。思わず耳を塞ぐ。
聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない……! 俺は、ただ、助けたかったんだ。あんなことをするつもりじゃあなかったんだ。
子供と兵士の声は尚も頭の中で叫び続ける。責め続ける。何も見えないはずの目に、あの血の海が、炎の海が蘇った。人々が血まみれで横たわっている。炎が勢いよく燃え盛り、黒煙は辺り一面を覆い尽くしている。 地獄……そう、地獄という言葉をそのまま表す光景。
何も感じないはずの体に痛みが走る。それは差し貫かれた怪我の痛みではない。斬られた右目の痛みでもない。大切なものを失った心の痛みだ。俺はチェリカを助けられなかった。チェリカの死に際の顔を思い出す。炎に焼かれ涙を流していた。俺は目の前にいたのに。それなのに――。
チェリカの事は助けられず、多くの人々を殺した俺は――。
もう――……。
左目を開ける。雨が降っている。うつ伏せに倒れ込んでいた体を起こす。顔と胸からの出血は雨によって流れ落ちていた。横にチェリカがいた。雨で髪の毛が顔にはりついている。チェリカを抱き寄せる。熱は完全に失われてしまっていた。その体を抱え立ち上がる。
ここは一体どこなのだろう。どこに歩いて来たのだろう。雨で出来たぬかるみに足をとられながら歩き出した。傷の痛みは不思議な程感じられない。貫かれたこの胸も、切り裂かれたこの顔も。歩き続ける。何度となく足を滑らせ、雨にうたれながら。
遠くに海が見えた。あそこまで行こう。雨の音に混じって波が打ちつけるような音がする。崖になっているんだろうか。
いつの間にか雨は止み、俺は目的とする場所に到着した。その場所はやはり切り立った崖になっており、眼下には荒れた海が広がっていた。しかしそれは先程までの雨による時化のせいであって、普段ならば、美しく広大な海がここから眺められるだろう場所だった。
ここに向かう途中拾った木の棒で、まだ湿り気の残った土を掘っていく。大きは石を手で取り除き、人一人入れる位の穴が出来上がった頃には、作業中沈んでしまった太陽が再び登り始める時間になっていた。
「朝、か……」
横たえていたチェリカの体を抱きかかえる。雨に濡れた髪も乾き、見た目はただ寝ているだけのように見える。でも違う。この手にもう温もりが伝わる事はない。チェリカの体を抱きしめ、そして出来上がった穴の中へと入れる。土をかぶせ十字に組んだ木の枝をその場所に立てた。
眼下に広がる海はすっかりその静けさを取り戻し、朝日を反射してきらきら輝いている。
終わった、全て。もう思い残す事はない。
湿っぽい土の上にごろりと横になる。きっと近い内に俺を捕まえにレイヴェニスタの兵士達がやってくるだろう。俺は皇帝を殺し、都に住む者達を殺し、兵士の仲間達を殺し、子供の母親を殺した。
もう、いいんだ。何もかも。
左目を閉じる。再び訪れた暗闇の世界へと身を委ねる。潮騒ももう聞こえなかった。
つぅっと冷たい何か柔らかいものが顔の右側をなぞる。何だ……? 同時に左側もなぞられている。これは誰かの手……? 誰かに顔を触られている。何かを確かめるように。顔の右側にある傷に触れて、ビクリとその動きは止まる。そして反対側を触る手が鼻と口の上でその動きを止めた。呼吸しているかどうか確かめるように。
左目を開けると細い糸のようなものが視界に入った。ぼやける視界が徐々に鮮明になっていく。チェリカ……? ……違う。別の女だ……。肩までの長さの明るい茶色の髪を垂らしこちらを覗き込んでいる。しかしその瞳は閉ざされている。
「誰だ……」
覗き込んだ顔が目を閉じたままにこりと微笑んだ。
「よかった、間に合いましたね」
何だ、この女。俺に、構うな。
「傷は治りましたよ。右目の視力は戻せないけれど」
女は微笑みを絶やさない。傷を治した? 俺は胸に手を当てた。服は破れているがその内側にあるはずの傷が無い。
「何をした?」
体を起こそうとしたが力が今になって入らない。ふぅっとため息をつく。
「立てませんか? ひどい怪我だったみたいだから、貧血起こしてるのかも。もう少し休みましょう」
女は勝手に話を進める。ほっといてくれ。
「久しぶりに【力】を使いました、私」
何なんだ、この女は。どうしてベラベラと【力】を持っていることを話す? もし俺がその事を通報したら処刑されるというのに。
女は脇に置いてあった杖らしき物を片手に立ち上がった。そして杖で足元を確かめるように歩き、その杖はチェリカの眠る墓標に当たった。女は杖をおき墓標に触れた。
「これは、お墓、ですか?」
俺は答えない。
「誰か、大事な方のお墓なのですね」
俺は答えない。女がこちらを振り向く。
「あきらめてはダメです。ここに眠る方が悲しみます」
女は尚も続ける。
「私、いつもここで祈っているんです。皆手を取り合って生きて行けたらって」
女がきれい事を並べた。
「誰かの為に生きるって素晴らしいことだと思うんです」
くだらない。そんな事、有り得ない。ただの理想論。人々の為に【力】を使ったチェリカは殺された。そして俺は沢山の人を殺したのに生きている。こんな理不尽なことはない。不意に涙が溢れだしてきた。見えない右目からも溢れ出す。
この涙は何だ? チェリカを失った悲しみか、罪の無い人々をもこの手にかけた罪悪感か、あまりに無垢な心を持つこの女を目の前に、何か感じるものがあったのか。
溢れる涙は止まらない。
泣かないで……。
一瞬、声が聞こえた。それは、聞きなれた声だった。
助けたかったけれど助けられなかったその声の持ち主。
チェリカ――……。