最終話 君の声 君の願い
死の間際、夢を見た。
けれどそれは夢という名の現実で、そこで見たのは、うなだれ涙を流す君。それはこんな俺の為に流してくれた涙だった。救えなかった、と後悔して流す涙だった。
どうしようもなく胸が痛んだ。
俺は救われていた。君はいつだって俺を救ってくれていていたのに――それなのに、そのことを伝える術がない。声は届かない。触れることだって、叶わない。
見ていることしか出来ない不甲斐ない俺は、最後の最後までチェリカを泣かせてばかりだ。情けなくて、涙が溢れた。ごめん、と届かない声を投げかけた。
けれどその時、ふと一つの可能性に思い当たる。
この【力】はどうだろう、もしこの【力】で俺に関する記憶を破壊することが出来たら、と。
それはちっぽけな希望。でももしかしたら、たった一つ、俺が君に出来るかもしれないこと。
意識を集中させる。
破壊するのは、チェリカの中の俺の記憶。それ以上でもそれ以下でもいけない。そもそもそんなことが出来るのか、一か八かの賭けだった。
目の前で泣くチェリカの頭を撫でた。しきりに会いたいと呟くその声が、胸に突き刺さった。
早く消えろ、消えてしまえ。俺のことなんかで悲しむ必要はないんだ。だから早く、どうか――。
やがて、ほんのわずかな変化が訪れた。
チェリカの囁く言葉の語尾が上がる。そこにあるのは、疑問。そこで俺は【力】が効いたことを確信した。賭けに勝ったのだ。そしてそれは、永遠の別れを意味していることにも気付いていた。
完全な忘却――共に過ごしたことはおろか、チェリカは俺という存在も忘れ去っただろう。それは存在自体消え去ったことに等しい。チェリカの生きてきた世界に俺は始めから存在しなかった、そういうことになるのだろう。
それが辛くないといえば嘘になる。でも、チェリカが俺のことで苦しむよりはマシだった。
顔を上げた君は、もう泣いていなかった。そしていつもと同じ声で告げる。
『あなた、誰?』
チェリカの目は確かに俺を捉えていた、ような気がした。その上で発された言葉に痛感する。君の中にもう俺はいないのだ、と。
「君は、幸せに――」
ひとこと。
たったひとことだけ言ってから視界は暗転した。最後の夢の終わりが訪れたのだった。
それから、一体どれほどの時間が経過したのか、それを知る術はなかった。ただ、さ迷い続けた結果、暗闇の中にそびえ立つ十字架を見つけた。なぜこんな所に、とは思わない。これが俺の行き着いた先なのだ。死ぬことで許しを得られるはずもない俺にとっては、当然の終着点だった。
それから繰り返した祈り。懺悔。それはいくら繰り返したって終わりはない。
けれど――。
「誰……?」
それは、不変の毎日に、そして恒久の闇の中に降ってきた懐かしい声。
そんなはずがあるわけがないと思った。こんなところで、その声が聞けるはずなどない、と。この場所に君がいるはずなんてない、と。
「ねえ……、あなたは――」
金の髪と青い瞳、細い体躯、あの日と変わらない姿、声。
現れたのは――君。
「……チェリカ……?」
少しずつ歩み寄るチェリカ。俺もまた、引き寄せられるように彼女の元へと近づいていった。そして向き合う。
「本当に、君なのか……」
青い瞳に俺が映る。その姿が揺らめいた。俺が動いたのではない。彼女の瞳の光彩が揺れたのだ。
そこでやっと俺はチェリカの表情に気付いた。浮かんでいるのは困惑の色。彼女はほんのわずかに視線を泳がせてから、思い立ったように目線を合わせ口を開いた。
「……あなた、誰?」
――ああ、そうだ。
それは当たり前の問いだ。チェリカの記憶の中に俺はいない。俺は始めから存在していなかったのだから。自分がそうしたというのに、その再会に対する嬉しさのあまり失念していたことの愚かさに気付いた。
「あ――ああ、ごめん。俺の……勘違いだったみたいだ。君が、俺の知り合いに……よく似ていた、から……」
慌てて言い繕った言葉は、ひどく滑稽なものに聞こえた。真っ直ぐチェリカの瞳を見ることも出来なかった。上手く笑えた自信もない。
馬鹿だ、俺は。
「ごめんなさい! 私――あっ!」
声に顔を上げた瞬間チェリカの体が揺れた。思わず手を差し出した刹那、鼻腔をくすぐる香り。ほぼ同時に感じた重み。
もう衝動は抑え切れなかった。俺は腕の中にあるチェリカの体を抱きしめた。
「……チェリカ」
駄目だ。
それは、分かっているのに。
込み上げてくる。
どうしても抑え切れない。
腕の中のチェリカは固まっている。当たり前だ。
感じる温もりも鼓動も、生きている人間そのもので、目頭が熱くなる。ただ君がここにいるというだけで。
「……あなたも、私の知り合いによく似ています。その子は女の子なんですけど」
どれだけそうしていたのか、先に沈黙を破ったのはチェリカのほうだった。永遠にでも続けばいいと思ってしまった時間は、あっけなく終わりを告げた。
「もうずっと会っていないから、あなたを見て……懐かしくなりました」
ほんのりと頬が染まっているように見えるのはきっと間違いじゃないだろう。照れ笑いのような表情を浮かべたチェリカにつられて、俺も微笑む。そこでようやく踏ん切りがついた。
彼女の中に俺はいない。いてはいけないんだ。
「……ごめん、驚かせて」
腕の力を緩め、チェリカを解放する。チェリカはゆっくりと一歩下がって微笑んだ。
「いいえ、それにしても……偶然ですね。あなたの知り合いと私の知り合いがお互いに似ているなんて。それに私の名前もチェリカって言うんです」
「……」
「あの、あなたの名前、聞いてもいいですか?」
知ってるよ、なんて言えるわけもなく。もちろん名前を告げるような愚かなこともしない。だからといって他にかける言葉も見当たらず、俺は足元に散らばった花を拾い集めることにした。そのまま屈んで下に落ちた花を拾い始める。
「……これは、お墓ですか?」
降ってきたのは、もう分かりきっているだろう問。きっともう一度名を尋ねるのは躊躇ったのだろう。
「……そうなんだ」
花を全て拾い上げてから、かろうじて小さく呟いた。そのまま十字架まで歩み寄りまとめた花束をそっと足元に置いた。
「俺は……罪人だから。生きている間は許されざる罪を犯した」
「ざ……いにん? あなた、が……?」
「……そうだよ。俺は、罪人。沢山の人をこの手で――殺した」
向き直ると、チェリカの表情から笑みは消えていた。殺人を犯したという人間の前では当然のことだろう。
「……もう君はここを去ったほうがいい。俺なんかのそばに、いちゃいけない」
離れなきゃいけない。
俺達は一緒にはいられないのだから。だから――。
チェリカが踵を返す。その背中を見送るしかないという事実が悲しかった。だから言ったんだ。あの日――俺が最期に君に告げた言葉を。
「君は……幸せに」
俺はこの贖罪の業からは逃れられない。だからこそ、君だけは。
その時だった。
立ち止まり、わなわなと震えるチェリカの後ろ姿。荒い吐息。その様子は明らかにそれまでとは違う。
「……チェリカ?」
思わず呼び掛けた声も、彼女の耳には届いていないように見えた。慌てて正面に回り込み、向き合う。しかしチェリカの青い瞳は俺を映していなかった。
「チェリカ」
もう一度名を呼ぶ。
しかし帰ってきたのは、耳をつんざくような悲痛な叫び。
何が起きたのかも分からず、無我夢中でチェリカの名を叫ぶ。何度も、何度も――俺はその名を叫び続けた。
一体、何度その名を呼んでしまったのか。いけないと分かっているのに。これ以上彼女の記憶を呼び起こすような愚かなことをするわけにはいかないのに。
自己嫌悪に陥りながら、チェリカの肩を揺さぶる。虚ろだった青い瞳の焦点が合わさる気配がして、息を飲んだ。
「……チェリカ?」
震えは嘘のように治まっていた。代わりに目の縁にどんどんと溜まっていく涙。潤んだ瞳は俺に向けられている。やがて涙は溢れ、チェリカの白い頬を濡らした。
「チェリカ……どうし、た――」
刹那、チェリカの体が飛び込んできた。
「イリ……ア、イリア……、イリア……」
縋るように、俺の名を呼ぶ。
思考が止まった。
一体、何が起きているのか、理解不能だった。チェリカは俺の名を呼び、涙をとめどなく流している。嗚咽を漏らし、縋るように視線を向けている。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
それはどういうことなのか? 記憶が戻ったというのか? なぜ、どうして――。
「……ごめんなさい……」
チェリカの細い指が俺の髪に触れた。そのまま、頬、唇へと。触れられた箇所から熱が広がっていく。
ああ、チェリカは思い出してしまったのかもしれない。目の前で泣くチェリカを見て、そう思った。何がきっかけとなってしまったのか。けれどチェリカが今泣いているのは、変えようがない事実。
「イリア……私は、ずっと――」
泣かないでくれ。
泣く必要なんて、ないんだ。
だって、俺は――。
「チェリカ」
名前を呼ぶと、チェリカの肩がびくりと震えた。潤んだ瞳が、すぐ近くにある。
「俺は、救われていたんだよ。いつだって、君に」
それはあの日と同じ言葉。
あの時君に告げた、俺の心からの気持ち。
しかしチェリカはかぶりを振る。
「……違う……私は、救ってなんかない。救えてなんかいない。いつも、いつだってあなたを……傷付けてばかり。心にも、体にも」
そう言って俯くチェリカ。これもあの時と同じだ。
「いくら謝ったって、足りないわ。私は……私は……っ」
「チェリカ。……顔を上げて。今度は、顔を上げて聞いてほしい」
けれど今度は違った。
俺の言葉を受けて、チェリカが顔を上げる。でも、続ける言葉は同じだ。君に伝えたい気持ちは変わらない。
「俺は、幸せだよ。誰が何と言おうと」
青い瞳の縁に溜まった涙を拭う。その時映った自分の顔を見て、自分も泣きそうになってしまっていることに気付いた。
「……君に、会えた」
チェリカの体を抱き寄せる。細い体はすっぽりと俺の腕の中に納まった。
この世界にいるということは、お互いにすでに死んだ身だというのに、鼓動が聞こえ、吐息を感じた。温もりを感じた。そのことが無性に嬉しかった。もう一度会えたということに、ただただ感謝する。
「チェリカ、ありがとう」
腕にチェリカの温もりを感じながら、あの日のことを思い出す。あの日の君の涙を、声を、表情を。
君は、あれから幸せだったのだろうか。
「チェリカ……ひとつ聞かせてほしい。君は……幸せ、だったかい?」
俺のことを忘れて、君は幸せになってくれただろうか。だれかと結ばれ、子供を授かり、笑顔で暮らしていただろうか。
「幸せなんて、そんな――」
しかし、そうであって欲しいという願いは、チェリカが首を横に振ったことであっけなく崩れ去った。
よく考えれば、それは俺のえごだったのかもしれない。世界はまだ混乱の最中にあっただろう。そんな中で幸せを掴み生きていくのは、どんなに難しいことだろう。そんな簡単なことに気付かずに、あの時そんな酷な言葉を口にしたことを後悔する。
ごめんな、チェリカ。
本当に、ごめん。
「――あなたを失って、幸せになんて……なれるはずもないのに」
――一瞬、聞き間違えたと思い顔を上げる。同時に伸びてくるチェリカの腕は、俺の顔の輪郭をなぞり、胸、腹部へと移動した。そしてやっと、胸も腹も致命傷を負った場所であったことを思い出した。
「チェリカ……」
チェリカは潤んだ瞳で俺を見上げている。まっすぐ、今度は決して逸らさずに。
「ごめんなさい、イリア。でも、私……今、こんなにも――幸せだわ。あなたに会えて」
目頭が熱い。
喉が詰まって声が出ない。
「会いたかった……」
チェリカの声は震えている。
ああ、君はどうして――。
「ずっとずっと、会いたかったの。今、やっと……叶ったわ」
どうして、俺を救ってくれるんだろう。最後まで俺は君に救われてばかりだ。
涙が溢れる。止められない。涙も、想いも。
「イリア」
ようやく笑うことが出来た時、君も微笑んでいた。
「……一緒に還ろう」
ありがとう、なんてきっといくら言っても足りない。
言葉を声にはしない。けれど、この腕に、体に、最大級の想いを込めてチェリカの体を抱きしめる。
チェリカ。
君の声が、こんなにも愛おしい。
君の願いが、こんなにも今胸に響く。
――チェリカ。俺と出会ってくれて、ありがとう。
視界の端に、足元の白い花が映る。
それはかすかな風を受けて、まるで祝福してくれているかのように踊っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
それほど長くないこの作品……けれどかけた期間は四年という、かかった時間もありますが初めて書いた小説ということで、拙いけれども思い入れのある作品となりました。
ただ正直、プロットを組み立てることなく勢いで書き始めてしまったということもあり、大変読みにくくなってしまっていたと思います。申し訳ありませんでした。
今後時間を見ながら、加筆修正をしていきたいと思っておりますので、また忘れた頃にでもぶらりと覗いていただけたら嬉しいです。
それでは最後にもう一度、拙い作品ですがここまで読んでいただきありがとうございました! もしよろしければ次回作もよろしくお願いします!
亜耶