第83話 一緒に還ろう
(感じるのは、痛み)
腕がちぎれそう。
足はもう棒のよう。
蓄積した疲労で、体は悲鳴を上げてる。
(見えるのは、宵闇に浮かぶ灯)
それは希望の光。
帝都を彩る、救いの道標。
(聞こえるのは、荒い吐息)
口元を染める朱。
朱が鮮やかに引き立つ青ざめた顔。
(願うのは)
死なせたくない。
死なないで。
生きて。
生きて。
「……チェリカ……」
その声にはっとして、辺りを見渡す。空には、闇の中瞬く星と、青白い月、そして確かに足に大地を踏み締めている感触がある。
私はそこに、立ち尽くしていた。
「……泣かないでくれよ……」
闇の中で微かにうごめくのは二つの影。横たわり嗚咽を漏らす影と、聞き覚えのある声を吐き出す影。
目を凝らしてその影を見つめてから、息を呑んだ。
「この二人は――」
言いかけて慌てて口元を押さえた。しかし目の前の二人に、私の声は音として伝わってはいないようだった。
そこにいた二人――それは私と、あの人――十字架の前で自分を罪人だと言い切った、あの彼だった。
「これは……幻なの?」
それにもしそれが錯覚ではないのならば、そこには鮮やかに広がった血の海があった。
「……泣かないでくれよ……」
血溜まりに沈む彼は、少しだけ眉を下げ、困った様な笑みを浮かべていた。その呼吸は荒いが、泣いている私を慰める様に、宥めるように、優しい声で続ける。
「君が……目の前に現れて、俺は……救われたんだ」
本当だよ、ともう一度繰り返して彼は大きく息を吐いた。私は、声を出す事も、動く事も出来ず、ただ涙を流しているだけだった。
「俺は……これで、いいんだ……」
涙を流す私にまっすぐ視線を向けて口角を上げた彼。その青白い顔色は月明かりの下にいるせいだけじゃない。
私は首を横に振り、視線を落とすとそのまま顔を上げなかった。
「……俺は、沢山の人を……ただ平穏に生きていた人達を……殺めた」
それでも彼は続けた。聞いているのかいないのか分からない私に向かって、呻き声にも似た声で言う。
「だから、俺は……これでいいんだ」
苦しそうに喉を鳴らし、大きく息を吐くと、顔を上げて、と懇願する様な声で続けた。
「……でも、俺は……幸せだよ……」
一呼吸おいて、チェリカ、と彼が私の名前を呼んだ。一瞬どきりとしながらも、その動向を見守る。
彼は微笑んでいた。怪我をしているようには思えないくらい、柔らかな優しい笑み。
「……ありがとう……」
「……っ、私は――」
情けない程に掠れ、震える声を私は絞り出していた。沈黙の中、俯いたまま流した涙は地面に染み込んでいく。
その時だった。私の目が、見開いた。
「……チェリカ」
呼ばれてから気付く。彼の手が私の手を握っている。しっかりと掴んでいる。
「……幸せ、に――」
そして、途切れる。
吐息が。声が。
文字通り、息を引き取った瞬間。
私が顔を上げる。その表情が歪む。
「……イリア?」
名を呼び、触れる。
固く閉ざされた瞼に。
青白い頬に。
微かに笑みを浮かべた唇に。
「やだ……やだよ……っ」
指先が震えている。でも震えてるのは、今目の前で叫んでいる私だけじゃない。私も、また。
「イリアぁ……っ!!」
泣いてる。
私が。そして私も。
胸が痛い。
どうして。
どうして?
なぜ胸が痛むの?
その理由を、私は――
――知ってる――
「……あああぁぁっ」
これは何?
これは記憶。私の記憶。紛れも無く、私が体験した悲しい現実。
なぜ今まで忘れていたの?
忘れてはいけないコトだったのに。私だけは忘れてはいけないコトだったのに。
ずっと、ずっと探し続けた。
私のせいで傷ついた彼を。救いたいと、願った。
けれど間に合わなかった。死なせてしまった。そして、忘れて生きて――。
「――リカ、チェリカ!」
目の前で私の名を呼ぶのは、イリア。
私の肩に、頬に触れるのは、イリア。
自分を罪人だと言ったのは、イリア。
この闇の世界で花を手向け続けたのは、イリア。
たった一人で。
この永遠とも錯覚する長い年月を。
「チェリカ……どうし、た――」
思わずその胸に飛び込む。
今なら分かる。かすかに花の香りの混じる懐かしい匂いが。大事な人の温もりが。その名前が。
「イリ……ア」
あなたは、いつだって優しい。こんな状態にあっても、なお。
「イリア……イリア……」
何度呼んでも、何度謝っても足りない。分かっていてもあなたの名前を呼ばずにはいられない。謝らずにはいられない。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
顔を上げると、そこには褐色の瞳が瞬いていた。放心しているかのように、表情はない。
涙が溢れた。
私が彼に対してした仕打ちと、彼がこの場所でたった一人で居続けた長い時間を思うと、嗚咽が漏れた。
「……ごめんなさい……」
もう他に言うべき言葉が見当たらなかった。許してなど言えるわけもない。イリアのことを忘れてしまっていたのは事実だから。なぜ、なんて理由はいらない。ただそのことが悔しかった。
手を伸ばし銀の髪に触れる。そして頬に、唇に。
温かかった。もう私達は死んでいるというのに、その温もりは本当だった。
「イリア……」
褐色の瞳の光彩が揺らめいている。そこに映る私もまた揺れている。
「私は、ずっと――」
あなたに会いたかった、なんて言えない。それならどうして忘れていたの? どうして覚えていなかったの?
今はこんなにも鮮明に思い出せるというのに。
あの時聞いたあなたの願いも。流した涙も。こんな私にかけてくれた優しい言葉も。
思考は纏まらなかった。ただ泣くことしか出来ない――なんて愚かな。
「チェリカ」
そんな私の手を取り、イリアは囁くように私の名を呼んだ。その優しい声は、あの時と何も変わらない。カラファで過ごしていた時も。そして最期の時も。
どうしてそんなに優しくなれるの? どうして私を憎んでくれないの? 全部全部、私のせいなのに。
褐色の瞳を細め微笑むイリア。
そんな顔を、私に見せないで。
「俺は、救われていたんだよ。いつだって、君に」
イリアの口から発される優しい言葉。
でも、本当は違う。私は救えなかった。最初から最後まで。
「……違う……私は、救ってなんかない。救えてなんかいない。いつも、いつだってあなたを……傷付けてばかり。心にも、体にも」
かぶりを振り、褐色の瞳を見据える。それは、どこまでも優しい眼差し。私は耐え切れずそこから逸らす。
「いくら謝ったって、足りないわ。私は……私は……っ」
「チェリカ。……顔を上げて」
強い語調で呼ばれ肩が揺られる。続けて降ってくるそれまでと同じ優しい声。
私はゆっくりと顔を上げた。イリアは――微笑んでいる。
「今度は、顔を上げて聞いていてほしい」
今度は――そのことが何を指しているのかは、すぐに気付いた。最期のあの時のことだ。私は彼の顔を見ることが出来なかった。受け入れたくない現実から、ずっと目を逸らしていたんだ。
イリアは目を逸らさない。まっすぐその瞳を私に向ける。
「俺は、幸せだよ。誰が何と言おうと」
温かく大きな手が私の涙を拭った。その時気付いた。彼の瞳も濡れている。微笑みを浮かべながら、その褐色の瞳の際には涙があった。
「……君に、会えた」
イリアの腕が私の体を引き寄せる。私は逆らうことなく、身を委ねた。
鼓動が聞こえ、吐息を感じた。温もりを感じた。手を伸ばし銀の睫毛を濡らす涙に触れた。それは温かかった。
「チェリカ」
私の名を呼ぶ唇。私の体を包む優しい腕。私に向けられた、笑顔。
そんな風にしないで。
勘違いしてしまう。悪いのは私、私なんだから――。
「ありがとう」
だって間に合わなかった。
助けられなかった。
あげくの果てに、独りにした。こんな暗くて寂しい闇の中に、あなたを。
「チェリカ……ひとつ聞かせてほしい」
腕の中に抱きすくめられたまま、問われる。鼻をすすり、褐色の瞳を見つめる。
一度大きく息を吐いて、口を開くイリア。私の体を抱く腕の力が強まった。
「君は……幸せ、だったかい?」
脳裏に瞬時に浮かぶ最期の言葉。
あなたが願った、最期の優しくて残酷な願い。
私は首を横に振った。その瞬間イリアの表情に影が落ちる。
「幸せなんて、そんな――」
思い出す――
――処刑の直前私の元へ駆けてくるその姿を。刃に貫かれた胸から溢れた鮮血を。
――彼を探し奔走した日々を。
――【力】に吹き飛ばされ、回る視界の中に映ったあなたの遠い姿を。
――ダリウスに深い傷を負わされたその体で私に向けてくれた笑みを。
――ともに願いを語ったあの日を。
――目を閉じたあなたの体の冷たさを。
――感じた悲しみ、怒り、憤り。
――心にぽっかりと空いた穴。
――埋めることなど出来るはずもなく、ただ時は過ぎた。
そして、忘却――
「――あなたを失って、幸せになんて……なれるはずもないのに」
この闇の中、どんな気持ちで墓に花を手向けていたのか。どんな思いで過ごしていたのか。
そう考えるだけで、胸が締め付けられた。
褐色の瞳、銀の髪、睫毛、唇、刃に貫かれた胸、老人に致命傷を負わせられた腹部。
その全てをこの手でなぞり、確かめる。
「チェリカ……」
優しい声――そしてまた実感する。再び会えたという、込み上げる嬉しさを。
……私は、なんて自分勝手なんだろう。そんなの間違ってる。間違ってるって、分かってるのに。
「ごめんなさい、イリア」
分かっていても、もう抑えられない。
この気持ちを――伝えたい。
「でも、私……今、こんなにも――」
すぐ近くにイリアの端正な顔がある。褐色の瞳を瞬かせながら、私を見ている。
私も、もう目を逸らさない。もうあの時と同じような過ちは繰り返さない為に。
目を見なければ、伝わらない。きっと。
「――幸せだわ。あなたに会えて」
きっと皮肉にも聞こえるだろう。だって私達はもう死んでいる。
けれどこの満たされた気持ち――それは真実。全てを思い出した今、そしてこうしてイリアと会えたことが、あの日、ぽっかりと空いてしまった胸の穴を埋めている。
私――ずっとずっと、会いたかったの。イリア、あなたに。
「会いたかった……」
声が震えた。
ただ一言を伝えるのに、どれだけ時間がかかってしまったんだろう。もしこの再会がなければ、きっと思い出すことすら出来なかった私の気持ち。
「ずっとずっと、会いたかったの。……今、やっと……叶ったわ」
イリアの目の縁に溜まっていた涙が溢れ、私の頬に落ちた。褐色の瞳はどこまでも真っ直ぐで、吸い込まれるように綺麗で。そして、彼はやっと微笑んだ。
あの日許されたのは許されたのは、本当にわずかな時間だった。すでにイリアは瀕死の状態で、それでも微笑んでくれた。はかなく優しい笑みを私に向けてくれた。けれど今はやっと――。
「イリア」
あの日の絞り出すような声を、願いを思い出す。もう、あの日とは違う。きっと、叶えることが出来る。
こんなにも遅くなってしまったけれど。こんなにも回り道をしてしまったけれど。
微笑む彼の頬に触れ、私もつられて微笑む。
「……一緒に、還ろう」