第81話 闇の先に
深い深い闇の底で、私は意識を取り戻した。俯せたまま目を開ける。
「ここは」
どこ、と言いかけて口を閉ざす。その声がひどく若々しいものだったからだ。慌てて起き上がろうとして、そのあまりの容易さに再び閉口した。体が軽い。まるで自分の体ではないようだった。
立ち上がり自分の体が視界に入ることによって、ようやくその理由に気付いた。
「私、この姿は……」
肌には張りがあり、皺なども見当たらない。視力の衰えも節々の痛みもなければ、杖も必要ない。その華奢な体には、とうに失った若さがあった。
同時に自分の置かれた状況を思い出す。
「ああ、そうだ。私――」
死んだんだ。
長い時を生きて老いた私は、死を迎えたのだ。
そして納得する。死後の世界だというのなら、この不思議な現象も受け入れることが出来そうだったからだ。
闇に包まれているはずなのに、自分の体がはっきりと見て取ることが出来ることだってそうだ。そして何より、この若い体が。
辺りを見渡すと、そこには相変わらずの闇が広がっている。それはまるで夢の続きを見ているようだった。それとも私が夢だと思っていただけで、この世界に足を踏み入れかけていたというだけなのか。
何の目標もなく、私は歩き出した。道と呼べるものも足元を照らす光もないけれど、ここでじっとしていることは出来なかったから。
どれだけ歩いたか分からない。けれど、進展と呼べるものはなかった。
どこに辿り着くわけでもなく、光が射すこともなく、さらには時間の概念すらもないその場所で、私は途方に暮れるしかなかった。
「……どうすればいいの」
思わず立ち止まり、呟いた。
再度ぐるりと辺りを見渡す。そこにあるの景色は、私が目を覚ました時となんら変わりはない。
ため息をついてその場に座り込む。
どうすればいいか分からなかった。これが死後の世界なのだとしたら、なんて寂しい――気が狂ってしまいそうだ。終わりがあった夢の暗闇の世界とは違い、この世界には終わりはあるとは言いきれないのだから。
自分の鼓動が大きく聞こえた。夢と一緒だ。
それなら、と私は望みをかけた。
「誰かっ!」
夢と同じく叫ぶ。夢ではこの後に目が覚めたのだ。死に至る前のほんのわずかな光だったけれど、確かに再びこの目で懐かしい景色を見たのだ。
「誰か……っ!」
しかし、闇が晴れる気配はない。暗闇はいっこうに暗闇のまま。
うなだれ、苦笑する。当然と言えば当然だ。これは夢じゃないのだから。
「やっぱり、駄目……か」
その時だった。
微かに、風が頬を撫でた。
「!」
慌てて顔を上げ周囲を見渡すと、再び頬を風が撫でていく。
「誰か、いるの!?」
もう一度声を張り上げる。応える声も、音さえもない。そのかわりに、目を凝らすと、今まで何も見出だすことの出来なかった暗闇の彼方に、光の粒があることに気付くことが出来た。
それは些細な、けれど確かな変化だった。
立ち上がり、光の粒に向かって無我夢中に駆け出す。やっと見つけた希望の光を逃すわけにはいかなかった。
走って走って、ようやく辿り着いたその場所にあったもの――それは白い花びら。拾い上げ手の平に載せたそれは淡く光っていた。
「これは……」
見覚えがある、というよりも知らないほうがおかしい。これは別れの花――死者に手向ける、あの白い花だ。
私だって生きていた間は、何度目にしたか分からない。五十年前、レイヴェニスタの墓地で溢れんばかりの同じ花を見た。そして最果ての崖の墓標に毎日手向けたのもこの花だ。
「シオンの花……」
ふと頭をよぎった言葉を声に出す。それはこの花の名だ。なぜかずっと思い出すことの出来なかったその花の名が、今になってするりと口をついて出たことに驚く。
よくよく見ると花びらは前方に点々と光の道を作っているようだった。私は花びらの淡い光に吸い込まれるようにして導かれていった。
次第に光の間隔は短くなり、足早にになりながら前へと進んでいく。前方が薄ぼんやりと明るくなっているのに気付き、私は再び駆け出した。もしかしたら、と胸が高鳴った。
しかし肩で息をしながら辿り着いた場所は期待したもの――暗闇の出口ではなかった。けれど、そこには思わず息を飲んでしまうような景色が広がっていた。
まるで花畑とも呼べるように辺り一面に敷き詰められたシオンの花、そしてその中央に構えるのは――巨大な十字架。それは天から見下ろすようにそびえ立っている。
「これは……墓標?」
そう考えるのが妥当だった。その大きさはさておき、十字架にこの花が手向けられる理由は一つしかない。それはこれが墓標だから、それだけだ。
「こんなに、大きな……」
近付き、触れる。
ひんやりとした温度は、火照った体を適度に冷やしてくれた。思いがけない所で一息つくことが出来て、私は大きく息を吐く。
それにしても、一体どうしてこんな場所にこんなものがあるのか。ここが死後の世界だというのなら、あまりにも皮肉なような気がした。死者が死者を悼むなんて、と。
その時だった。また、風が通り抜けた。同時に足元の沢山の花がざわめく。それと気付いたのは、一つの気配。
私は気配の方へと向き直り、目を凝らした。光の道に人影が浮かんでいる。その体がぼんやりと発光しているように見えるのは、その腕一杯にシオンの花束が抱えられているからだろう。
おぼろげな輪郭から、目の前の影は男性のものだということが分かった。しかし残念ながら腕に抱えられた花の淡い光では、この距離でその顔を確認することは出来ない。
「誰……?」
恐る恐る声をかける。彼もまた息を飲む気配がした。
「ねえ……、あなたは――」
そこまで言ったその時、彼の腕から花が落ちた。音もなく、光の軌跡を描きながら、それは足元に散らばった。
そこに視線を落とすと同時に声がした。
「……チェリカ……?」
それは、私の名。
今確かに、目の前の彼は私の名前を呼んだ。
予想外の出来事に耳を疑いながら、足を一歩一歩踏み出す。彼もまた、こちらへ近付いて来るようだった。
そして私達はすぐ触れ合えるくらいの位置で、お互い向き合った。そこにあった姿に私は首を傾げた。
漆黒の衣服を纏った端正な顔をした銀髪の青年。その褐色の瞳が瞬いた。
けれど私は――彼のことを知らない。
私が知らなくて、相手が私のことを知っている可能性。それはもちろん、あるかもしれない。無償で病を癒すということは、あの親子がそうであったように、知らないうちに噂になっていたから。
「本当に、君なのか……」
でも彼の反応はそれとは違うような気がする。治癒師としてではなく、私として知っているのではないかと気がした。
今度は私が言葉を返せずにいた。だって私は、この人を知らない。お互い見ず知らずの相手ならどうとでも反応出来たが、どうやら相手は私を知っているようだ。そんな彼にどう言葉を返せばいいか分からなかった。
大きく息を吐き、まっすぐに彼を見据えながら、私はようやく口を開いた。
「……あなた、誰?」
そう発した瞬間、彼の表情が固まったような気がして、一瞬まずいことを言ってしまったかと口を紡ぐ。しかし彼の口元がすぐに緩んだことに気付き、胸を撫で下ろした。
「あ――ああ、ごめん。俺の……勘違いだったみたいだ。君が、俺の知り合いに……よく似ていた、から……」
微笑みながら、視線を落とす。そんな彼の声が震えているような気がして焦る。もしかして私がただ忘れてしまっているだけなのでは、と。現に彼は私の名を正しく呼んだ。
「ごめんなさい! 私――あっ!」
慌てて失礼を詫び、前へと踏み出す。しかし慌てるあまり、何でもないところで蹴つまずき、私は彼の腕の中に倒れ込んだ。
恐る恐る顔を上げ、彼を見上げる。頭一個分ほど背が高い彼の目と目が合った。
褐色の瞳に、銀の髪。ふとユナのことを思い出す。あの子とは結局五十年前に別れたきりだった。
「……チェリカ」
頭上から降ってきたのは優しい声。その声にはっと我に返る。その瞬間――私の体は彼の腕に抱きすくめられた。