名も知らぬ誰かさんへ、結婚することになりました
バサバサと羽音を立てた白い鳥が、窓枠にとまった。
「まあ、いらっしゃい。来てくれてうれしいわ」
白い鳥の片足には小さな筒が付いている。エミーリアはわくわくするような、子供の頃に内緒で甘い焼き菓子をもらったような、浮き立つ気持ちで筒の中の手紙を取り出した。
『今年の森のベリーの味が良いみたいだよ。もう食べた?』
「あら、もうそんな時期だったわね」
去年の今頃も、森に行ってベリー採りをした。その時には祖母がいて、ベリーのケーキを焼こうと、カゴにたくさん入れて持って帰った。一昨年も、その前も。手紙の相手はそれをよく知っていて、良い時期を教えてくれるのだ。
エミーリアは白い鳥に餌をやって、嘴を撫でてやる。返事を書きたいが、これから出かけるところだったので、『しばらく、ここで待っていてくれる?』と言うと、白い鳥はわかっていると言わんばかりに羽を広げて部屋の中を飛んで、いつもの待機場所である椅子の背もたれに止まって羽を休めた。
エミーリアはいそいそと荷物をカバンに詰めて窓を閉めると、部屋を出る。この屋敷は町の郊外にあって、木々に囲まれた場所にポツンと一軒建てられていた。庭もあってそこそこ広いのだが、一人暮らすには広すぎる。だから使っている部屋は少なくて、開いていた窓はエミーリアの部屋だけ。他の部屋の窓は確認せず、玄関の鍵を閉めた。
この生活になって、はや一ヶ月。やっと落ち着いたような、まだ慣れないような、そんな頃。けれど前に進まなければならないので、エミーリアは昨日作り終えた商品を持って、久しぶりに町の中心部へ訪れることにした。
「これはまた、美しいですな。エミーリアさんの商品を気に入る貴族は多くて、うちの店も大繁盛ですよ。この細かで繊細な編み方と、他にないデザイン。さすが元貴族といったところ……、いえ、金額はこれでいかがですか?」
「それでお願いします」
店主の出した値段を確認して、エミーリアは頷く。これを元手に糸を買い、また新しい商品を作る。レース編みが得意で良かったと心から思う。それがなければ一人で生活するなんて無理だったろうし、時間を無駄に過ごすだけで、ただ一人うつうつと日々を過ごすことになっていた。
お金をカバンに入れて店を出ようとすると、店主が「またお願いしますね」と言ってから、「あの件については、まだ決まってないですよね?」と言いにくそうに確認してきた。
「もう少し、お返事は待ってもらっても良いでしょうか? 私もまだ、……祖母を亡くして時間も経っておりませんし、気持ちの整理もついておりませんので」
「ええ。もちろん、理解しております。まだ忌引き中ですし、すぐにというわけにはいかないでしょうから、もう少々お待ちいただけますよう、お伝えしておきますよ」
「ありがとうございます。助かります」
店主がわかっていると頷いてくれたので、エミーリアは安堵して店を出た。
賑やかな通りは馬車が走り、人々が店をのぞいたり、笑いながら歩いたり、時に忙しそうに早歩きしたりしている。この辺りは貴族が使う店が多く、紋章の入った馬車から降りてくる令嬢も目にとれた。華やかなドレスをまとい、気取るように口端を上げて悠々と店に入っていく。そんな令嬢を見ないように背を向けて、持っていた日傘を差すと、エミーリアは歩き出した。
「危ない!」
急に後ろから声が届いて、エミーリアは体を引っ張られたのがわかった。勢いよく何かにぶつかったと思うと、馬車がスピードを出してエミーリアの真横を過ぎていく。日傘をさしていたせいで、しっかり前が見えていなかった。気にせず歩いていたら無事では済まかったと思うと、ゾッとする。それを助けてくれた人は、エミーリアを抱えるように引っ張ってくれた。――と、今、誰かの腕の中にいることに気づいて、エミーリアは焦るように体を離した。引っ張ってくれたおかげで助かったが、その相手の胸に顔を埋めていたのだ。
「も、申し訳ありません! 助けていただき、ありがとうございます。よそ見をしておりました」
「いや、あの馬車がスピードを出しすぎていただけだ。怪我がなくてよかった。レースを売った帰りか?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには身長の高い、整った顔の金髪の男性がいた。後ろに結んだ金髪の一房を揺らして、落とした日傘を拾うと手渡してくれる。
「ありがとうございます。団長さんでしたのね。ええ、はい。お店に行った帰りで。私ったら、いつも団長さんに助けられていますね」
何だか恥ずかしい。乱れた栗色の髪を撫でてその場しのぎで整える。エミーリアを助けてくれたのは何度目だろうか。彼はこの領地を守る騎士団長で、名前をシルヴィオ・ファビアーニといった。城を守ったり治安を維持したりと忙しい人だが、祖母が一人で郊外に住んでいるのを気にして、時折様子を見に来てくれ、エミーリアとも親しくしてくれた。
「これから糸屋さんに行って、食料を見てから帰るつもりです」
「祭りの準備が始まっているから、人も多く出ている。気をつけて帰ってくれ……」
シルヴィオは何か言いたそうにして、口を閉じた。言わんとしていることは何となくわかって、エミーリアは笑顔を作る。
「今日の商品は高く売れたんですよ。奮発して美味しいものでも買おうかと思ってます!」
「…… そうか。それじゃあ、気をつけて」
「はい。助けてくださって、ありがとうございました」
シルヴィオに挨拶をして、後ろ髪引かれるようにエミーリアは歩き出す。一度振り向けばシルヴィオはまだエミーリアを見ていて、エミーリアが軽く会釈すると、やっと背を向けて歩き出した。
気にかけてもらっているのがわかって、エミーリアは胸が温かくなった。けれど、いつまでも彼の優しさに縋っているわけにはいかない。彼はこの領地の騎士団長で、誰にでも優しく、かつ人気者なのだ。そう考えている間にも、令嬢たちの声が耳に届いた。
「シルヴィオ様よ。素敵ねえ。聞いた? バルツアー伯爵令嬢に結婚を迫られたって」
「でも断ったって話でしょう? 伯爵家の次男とはいえ、あんなに素敵なのに婚約者がいないんだから、みんな狙うわよ。私だって相手にしていただきたいわ!」
「それを言うなら、私だって!」
そんな令嬢たちだけでなく、歩いている町娘も話しかけたそうにシルヴィオの後ろ姿を追っている。女性ばかりではなく、同じ騎士団の騎士たちや、町を歩く少年たちまで様々だ。それは容姿や身分であったり、性格であったり、個人の好みの話であるかもしれないが、それだけでなく、シルヴィオが領地のために真摯に働く姿を皆が知っているが故だった。
一人で住んでいた祖母のために、様子を見に来てくれていたのもその一つ。小さな領地といっても、たくさんの人々から好かれるなど難しいことなのに、好かれている。それは彼が計算することなく、ただひたすら真面目に暮らしやすい町にすべく、常に領地民のために親身になって動いてくれる人だからと理解している。
だから、誰もが彼を好きになるのは当然のことで、相手にされないことも当然のことだった。
エミーリアはため息を吐いてから空を見上げる。道並びにある建物のベランダで、垂れ幕を飾っている人が目に入った。領地の紋章があしらわれた垂れ幕だ。終戦記念日であり平和を祈る日である祭りの日が近づいている。今ではみんなで美味しいものを食べて、ダンスをして、お酒を飲んで楽しむ日にもなった。だから町全体が浮かれていて、皆がその日を待ち遠しそうにして浮き立っている。
そんな雰囲気を感じぬように俯くと、エミーリアは糸が売っている店へと足を向けた。
* * *
『あの子は何が欲しいかしら?』
母親が父親と相談している声が聞こえる。父親は「去年はぬいぐるみだったからな。エミーリアも大人になったし、アクセサリーとかどうだろうか』とうなりながら言うと、いやしかし、と打ち消して、『まだ子供だから、人形の方が』と首を振る。
『まあ、女の子の成長は早いのよ。去年はぬいぐるみでも、今は一緒に寝ているわけではないわ。新しいドレスがいいと思うのよ。愛らしい髪飾りと揃えて。あの子に似合うドレスの目処は付けてあるの。それに合うレースのショールを編んでいるところ』
『なんだ。もう決まっているんじゃないか』
『あなたの意見も聞きたかったのよ。小さなぬいぐるみもつけようかしら。おませさんでもまだ子供ですもの』
『さっきから言っていることが違うぞ。つまりどちらもあげたいんだな』
『そういうことね』
両親が笑い合って、エミーリアの贈り物を決めている。それをこっそりのぞいて聞いて、新しいドレスと髪飾り、ぬいぐるみ、母親が作ってくれるレースのショールがもらえることを、一人喜んでいた。両親はエミーリアに内緒だと言うから、うれしそうな顔も我慢しなくちゃと緩む頬を自分の両手で押さえた。
七歳の誕生日が待ち遠しい。その日は国の記念日で、一ヶ月後に迫っていた。
* * *
「ただいま戻りました」
シンと静まる祖母の屋敷に帰ってきて、誰のなんの返事もないことを承知しながら、エミーリアは階段を登った。いつもならば祖母のいる部屋に向かうが、そこにはもう誰もいない。一度扉を開けようとしたが、次の部屋に足を向けた。祖母が健在のときに過ごすように言われた、エミーリアのための部屋。
部屋に戻っても誰もいない。けれどその無人のはずの部屋で、コツコツと音を立てて待っている鳥の姿があった。その姿を見ただけで、なぜかホッと安堵する。
「遅くなっちゃったわね。今すぐにお返事を書くわ」
今朝、手紙を運んできてくれた白の鳥。名前を知らないのでその子の名前を呼ぶことはないが、白の鳥は人懐っこい性格をしていた。戻ってきたエミーリアを見るや否や、すぐに肩へ飛んでくる。羽は大きく、乗られると少々重いのだが、温もりを感じると胸が急に熱くなる。一人しかいないこの屋敷で、待ってくれているものがいるだけで、心の重みが減ったような気がした。
「返事には何を書こうかしら。ベリー採りにはまだ行っていないのよ。でも、そうね。そろそろベリーを採りに行って、ケーキを作りたいわ。ジャムも作らなきゃね。スコーンにたっぷり付けて食べるの。おばあさまも大好きだった」
けれど、そんなに作っても、一緒に食べてくれる人はいない。自分だけが食べる分量を考えなければならないと思うと、急に何かが込み上げてきそうになる。
「ええと、ベリーを、採りに行くわ。そう。採りに行きます。それから、レース編みのショールが高く売れたのよ。だから、私、今とってもお金持ちなの。って、書くのもなにかしら」
言いながら、鼻を啜って、インクをつけていたペンを置く。
「そうね。書かなきゃいけないことがあるのよ。ねえ、長い手紙を持って飛んでいけるかしら? あなたに、伝えなければならないことがあるのよ。名も知らぬ誰かさん。私、もうこの文通が続けられなくなるかもしれないわ」
今日、レース編みの商品を売りに行った。エミーリアが祖母の家に住むようになってからずっと、世話になってきた貴族向けの衣装を売る店。その店主づてで、エミーリアへ話が届いていた。
「私、お嫁に行くかもしれないわ。だから、この屋敷は国の手に渡るの」
結婚は、決めかねている。けれど、決めなければならない。
「だって、そうでしょう? もうここには私しかいないのよ。おばあさまは亡くなってしまったの。私をずっと育てくれた、おばあさまも、亡くなってしまったのよ。だから、私は、一人になって、この屋敷を出ていかなければならないわ」
この国のルールは歪だ。女性は男性の付属にしかなれない。娘に生まれれば父親の保護を、誰かと結婚すれば夫の保護を受ける。相続を受けることはできない。与えられるのは保護される権利だけ。唯一許されるのは寡婦になった時、夫の財産を少しだけ残してもらえること。
祖母は侯爵家の令嬢だった。夫は伯爵家の当主で、伯爵夫人となった。娘を一人生んだが、跡取りは生めなかった。老年になって夫を失うと、後継者のない伯爵家は、財産のほとんどを国に返すことになった。残ったのは自分の屋敷を得るお金とその後の生活費だけ。
祖母が良かったと言うのは、祖父が大金持ちだったことだ。だから多くを奪われても部屋数のある屋敷は購入できたし、使用人は数人雇えた。
だから、祖母が生きている間は、その残った財産で暮らすことができたのだ。
けれど……。
「私は息子でもないし、孫でも男の子ではないから、祖母の財産は得られないの。半年以内に、この家を出なければならないわ。財産は国に返さなければならないから」
だから、手紙は書けなくなるのだ。白い鳥はいつもエミーリアの部屋にやってきて、その愛らしい嘴で窓をノックしてくれるが、次にこの子が部屋に来ても、エミーリアはそこに住んでいないかもしれない。だから伝えておかなければならない。この屋敷を、あと五ヶ月以内に出ていくことを。
名も知らぬ誰か。いつも手紙を届けてくれる白い鳥。エミーリアは、この手紙が届く先を知らなかった。
この白い鳥が部屋にやってきた日のことは、鮮明に覚えている。
エミーリアは七歳の時、両親を失った。暴れた馬と馬車に追突されて、エミーリアと両親が乗っていた馬車が押し潰された。残ったのは母親に抱きしめられていたエミーリアだけ。目が覚めたらベッドに一人。その後、執事から両親の死を知った。それから王宮から人が来て、屋敷を出ていかなければならないと聞かされた。期間は半年。伯爵令嬢の座はなくなり、誰かの養女になるか妻にならなければ、貴族として残れないことを知った。
絶望の時。しかし現実から目をすらすこともできない。伯爵家に仕えていた者たちはあっという間に屋敷を出て、残されたのはエミーリアのみ。国の慈悲で祖母に連絡がいき、エミーリアの身を引き取ってくれることになった。
葬式を執り行ったのは国で、伯爵家の財産から支払われた。国が没収する財産だが、葬式くらいは行ってやろうという、それも慈悲だった。
祖母は体が弱く遠乗りできないという理由で、葬式には参席できなかった。だから、参列した父親の友人たちや仕事仲間、母親の友人たちやその子供たち、それらに憐れみの目を向けられながら、まだすべてを飲み込むことができないエミーリアと両親との最後の別れが執り行われ、その後すぐに、祖母の屋敷に連れられたのだ。
その日は祭りの日で、エミーリアの八歳の誕生日。自分の心とは裏腹に、どこもかしこも賑やかで、あちこちで笑顔が見られる騒がしい夜だった。たった一人。エミーリアだけ、暗く、先の見えない暗雲が垂れ込めたような表情をして、真っ赤な眼も枯れるほどの涙でどんよりとして、ただ虚ろに、周囲の景色を映していた。
祖母はエミーリアを見るなり強く抱きしめて、「待っていたよ」とだけ言った。
そうして、祖母の屋敷でぼんやりとしたまま過ごした一年。祭りに行こうと祖母に誘われて馬車に乗って向かった町で、見覚えのある祭りの雰囲気に、あの時の記憶がやっと鮮明に、両親と自分に何が起きたのか、現実に戻るように思い出さされた。
馬車を出てすぐ、泣いて、泣いて、息をすることすら忘れるほど泣きじゃくって、周りに人々が集まってくることも構わず、ただひたすら泣き続けた。
あの時のことを知っている人はきっとたくさんいる。祖母の屋敷に来た、両親を失った、元貴族の女の子。そんな話は、祖母を知っている人みんなが知っていたからだ。
泣き続けるのに疲れて、やっと両親が死んだことを飲み込むことができた日。早朝、泣き腫らした目をして目覚めれば、部屋の窓をノックする白い鳥に気がついた。
『コンコン』
『コンコン』
返事をするまで梃子でも動かないとでも言わんばかりに、しつこく窓を嘴で突く。飼われている鳥だとわかり窓を開けてやると、バサリと羽を広げて椅子まで飛んで宿木代わりに止まった。そうして、しきりに足元を気にするように、自らの足をつついたのだ。
白い鳥の足には通信用の足筒がつけられており、中には短い手紙が入っていた。読んでいいものかわからないため、一度取り出してもう一度筒の中に手紙を入れ直してやった。そうすれば飼い主の元に戻ると思ったからだ。
エミーリアの思う通り、白い鳥は羽ばたき、姿を消した。餌をあげれば良かったと思いながら、エミーリアは泣き腫らした目をして祖母に会いに行った。まともな思考能力を持って目覚めた、最初の日。
その後、再びその白い鳥が現れる。
『ここには手紙を渡すような人はいないのよ。おばあさまはあなたのことを知らないと言っていたわ』
そう伝えたのだが、白い鳥は窓を開け放したままにしても出ていかない。仕方がないので手紙を見ないように別の手紙を入れた。
『どこのどなたに手紙を渡すのかわかりませんが、私ではないことは確かなようです』
そんなエミーリアの手紙を無視するように、またも白い鳥が現れる。
仕方がないので、手紙を読ませてもらうことにした。中に素性のわかる内容が書いてあるかもしれないからだ。相手がわかれば祖母に頼んで、『送っている相手が違いますよ』と言えるから。
そうして手紙には、こんなことが書いてあった。
『宛先のない手紙に返事を書いてくれる人を待っています。名の知らぬ人』
白い鳥がを見やれば首を傾げるだけ。ではこの手紙の宛先はなく、たまたま白い鳥がこの屋敷の窓にやってきて、羽を休めただけなのか。不思議な気持ちで、エミーリアはペンを取った。
『名も知らぬ誰かさん。この子は何が好きなのかしら。お部屋に来た時にお水しかあげられないの。この子の食べられるものを教えてほしいわ』
それを白い鳥に運んでもらえば、数日後に返事が来る。
『トウモロコシや麦、柔らかい葉も好みます』
早速乾燥させてあったトウモロコシをあげると、キュイッと鳴いておいしそうに食べ始めた。
それからだ、白い鳥を通じて、名も知らぬ誰かと文通が始まったのは。
『山に住むムササビの親子を見たことはある? 近くに百合の群生があって、とても綺麗だよ。ムササビに会えなくても、美しい花が見れる』
『おばあさまに許可をもらって、屋敷の人と見に行ったの。とても有名な場所なのね。手に入れたハチミツがその百合のものだと聞いたわ』
『町のクルクさんの店に行ったことは? ナッツのお菓子がとてもおいしいんだよ』
『食べてきたわ。香ばしくて、甘いけれどちょっぴり苦いところが、とっても好きになっちゃった』
町のこと、郊外の森のこと。名も知らぬ誰かは色々な情報を教えてくれた。同じ町に住んでいるのだろうが、名前を名乗ることはない。それでいいと思った。宛先のない手紙を送るような人だ。きっと寂しい思いをしていてそんなことを考えついたのだろうし、誰にも素性を知られたくないから、そんな真似をしているのかもしれない。
エミーリアも素性を明かすことはしなかった。両親が死んで、祖母に引き取られた、元貴族の令嬢。近くに住む人たちはそんな噂話をして、エミーリアを哀れみの目で見た。その度に、両親がもういないことを突きつけられるような気がした。だから、この文通相手から、そんな同情心を感じたくなかったのだ。
手紙の相手はエミーリアの知らない人。名も知らぬ誰かもまた、エミーリアを知らぬ人。それでいい。だから気軽に会話ができて、相談もできる。
けれど、それも終わる時が来てしまった。
「私はこの屋敷を出なければならないの。今までのお礼を言うわ。名も知らぬ誰かさん。私とお友達になってくれて、ありがとう」
そうしたためて、エミーリアは白い鳥を空に放った。
◇
「エミーリア、結婚するの?」
「そのようになると思うわ。屋敷を出ていかなければならないから」
近所で唯一の女友達に誘われて、エミーリアは森へベリー採りに来ていた。
エミーリアが元貴族だと知っても気にしなかった女友達は、カゴいっぱいになったベリーを地面に置いて、草むらに座り込む。
「うううっ。この国のルールって、ほんとおかしいよ! なんで同じ家に住んじゃいけないの!? なんで、エミーリアが出ていかなきゃならないの!?」
「お金があればいいのだけれど、おばあさまの財産は私のものにはならないから、私が自分で稼いだ分ではあの屋敷は買えないのよ」
祖母はいつかくる自分の死を考えて、早いうちからエミーリアに遺産を残そうとした。国に奪われないように、合法的に、エミーリアにお金を残す。それはエミーリアが作るレースの売買の仲介を行い、貴族に高く売り付け、その利益をエミーリアに還元するというものだった。その利益に色を付けていたのである。とはいえ、それも微々たるもの。苦肉の策で、当面の生活費や小さな家を借りられる程度。祖母の屋敷を購入できるほどの金額になるはずがない。
年齢を重ねてからは祖母の紹介で店に売りに行くことになった。貴族からの注文で難しいデザインも作るようになりお金が前より手に入ることになっても、屋敷などは遠い話だ。
「それでも、一人で生きていけると思うのよ。思っていたのだけれど、いざ一人になると、難しいわ」
「エミーリアは美人だから目立つし、貴族だったことはみんなが知ってるから、一人暮らしは危ないもんね……。そうなると誰かの奥さんになるのが一番安全なんだろうけど」
「そうね。私もわかっているわ。だから、お話を受けるべきなのよね」
「結婚の申し込み相手って、子爵家の長男なんでしょう? エミーリアは貴族に戻るのは嫌なの? エミーリアは伯爵令嬢だったから、身分が下がるのは嫌?」
「私はもう平民よ。そういうわけではないけれど、ただ、まだお嫁に行きたくないだけかもしれないわ」
そんな子供のようなことを言うわけにはいかないのだが。エミーリアはため息をつく。
店主から伝えられたのは、婚約話だった。子爵家の長男からの婚約話で、相手方はエミーリアが平民でも気にしないと言うし、子爵家は商売を行っていてそれなりにお金持ちだそうだ。エミーリアからすれば良い話だし、断る理由もない。祖母が亡くなって、身よりもなくなった。ならば見受けしたいという、相手のたっての希望だ。
そんなことを言われたけれど、エミーリアは返事に迷った。両親が死んで、平民になって、結婚なんて考えたこともない。そもそも両親がいなくなり祖母の家に引き取られたことで、エミーリアの人生はガラリと変わった。平民に身分を落とされ、手に職を持つ必要が出てきた。同じ年で女の子の平民は、八歳にもなれば家のことを手伝うのが当たり前だったからだ。
けれど、貴族はまったく違う。女性は屋敷で刺繍や編み物をして、夫や父親の家を守ることが仕事だ。社交界に出てお茶会をして、夫や父親のために情報を得る。子供の頃なんてずっと家にいて、淑女になるための学びを行うだけ。働くなんてもってのほかだ。大人になっても働く女性なんてほとんどいない。そのうち誰かと結婚して、また屋敷を守る。何も変わらない。ただ立場が娘から妻になるだけ。
エミーリアもそのつもりだったのに、いきなり平民になって、祖母に何か得意なことを見つけなさいと言われた。将来、一人でも生きていけるようにと。
「お母様に習ったレース編みで、一人で生きていけると思えば、今度は貴族と結婚なんて言われるとは考えもしなかったわ。おかしいわよね。本来であれば、私には婚約者がいたはずなのに、そんな立場だったことなんてすっかり忘れちゃった。だから、今さら貴族の妻になれと言われても、戸惑ってしまうわ」
「一から勉強しなきゃならないってこと? でも、おばあさまは伯爵夫人でしょう? 伯爵が亡くなられても貴族なんだから、エミーリアの生活も一緒じゃないの?」
「私は平民になっているから、貴族の生活と同じとまではいかないの。屋敷でおばあさまのお友達とお茶会をしても、私はもうすぐ十八歳になるのにデビュタントもしていない。だから、子爵家の夫人になるとしたら、子爵家は恥をかくと思うわ」
「それを気にせず結婚を申し込んでくれているんじゃないの?」
「そうだといいのだけれど」
「エミーリアは不安なんだね。そりゃそうだよね。急に結婚、なんて」
だからなのだろうか。エミーリアにもわからない。不安で迷っているのか、ただ貴族に戻りたくなくて考えているのか。ただ、店主からは、『子爵家は、早めの返事を欲しがっている』と言われている。貴族から結婚の申し込みがきているのだから、有耶無耶にするわけにもいかない。今は忌引き中だからと言ってのらりくらり交わしているが、本来ならば平民のエミーリアが拒否できる話ではないのだ。それに、屋敷を出ていかなければならないのは決定事項である。
「もう少し、考えてみるわ」
エミーリアはベリーのカゴを持ち上げた。これからジャムにしたり、ケーキにしたりと大忙しだ。ジャムは作った後瓶に詰めて売りに行く。ジャムの出来は毎年良くて、高く買ってもらえた。エミーリアが作るジャムは美味しいのだと評判だからだ。祖母から教えてもらった、ちょっとしたスパイスを入れることで、甘みが増す。それが人気の秘密だ。
(ベリーのジャム、見知らぬ誰かさんに一度だけでも食べてもらいたかったわ)
いつも春になると、森のベリーの出来具合を教えてもらえる。森は屋敷から少し離れているし、何度も行き来するのは大変だ。だからそろそろ収穫できる頃だろうと目星をつけていくわけだが、早すぎたり遅すぎたりすることがある。けれど、名も知らぬ誰かが教えてくれることで、いつもちょうど良いベリーを採ることができた。
謎の見知らぬ誰か。結婚することになったら心残りなのは、その人との文通が途絶えてしまうということ。それが何よりも、エミーリアにとって、心痛めることだった。
◇
「エミーリア、奇遇だな。ジャムを売りにきたのか?」
「団長さん。ええ、ベリーを採ってきたから、ジャムを作ったところなの」
屋敷に帰って、早速ジャムを作って、それを瓶に入れて持ってきた。売上は上々で、ちょうど店を出て歩き始めたところでシルヴィオが声をかけてきた。馬に乗っていたシルヴィオは長い足で馬の背を跨いで、音も立てずに降りると、その端正な顔をエミーリアに近づけた。
「うん、甘い匂いがする。作ったばかりなんだな」
「そ、そうですが、団長さん、そんな迂闊に近寄らないでくださいな。他の女性たちの視線が痛いです!」
シルヴィオの女性ファンは多いので、抜け駆けをするなと威嚇されがちだ。今も同じくジャムを売りにきた女の子たちが、エミーリアを睨め付けた。
「甘い、良い匂いをさせているから」
「言い訳になりませんよ。甘党の団長さんはお店のジャムを買ってくださいな」
「エミーリアはもう店に売ったのか? それを買おうか。君のはとても人気があるから、いつも買えないんだ」
「店頭に出してもらったばかりですから、たくさんありますよ。ぜひ購入してください。私の単価を上げるためにも!」
「商売上手だな。ぜひ買わせてもらうよ」
冗談なのに、シルヴィオは笑いながら店に入る。どの瓶がエミーリアのものなのか教えてくれと言いながら。『それでは女の子たちにもっと睨まれるではないか』と思いつつも、ニヤケ顔をしないように自分が作ったジャムの瓶を教える。
「お仕事は休憩中ですか? お店でお買い物なんて」
「食べ物くらい買うのは許されているさ。昼食みたいなものだ」
「まったく違うと思います! 瓶詰めのジャムを昼食なんて言いません」
「ジャムを買ってパンを買うかもしれないじゃないか。それをつけて食べるかもしれないだろう?」
「騎士の方がパンの他にジャム瓶を持っているのは見たことないですね」
笑いながらそんな話をして、シルヴィオはジャムを三つも購入してくれる。彼の好みに合えば良いのだが。するとすぐに一瓶開けて、中の味を確かめた。
「うん、ちょうどいいな。甘すぎず、けれど濃厚で、どんなパンにも合いそうだ」
「褒めすぎです……」
「本当だぞ。人気なのも頷けるな」
周りに人がいるのに、そんなに褒めないでほしい。顔が熱くなってきて、エミーリアは自分の頬を両手で仰いだ。そんなエミーリアの横で、シルヴィオは目を細めてクスリと笑う。その顔を見るとなおさら恥ずかしくなった。
「エミーリアは、これから買い物でも?」
「いえ、いつものお店に行くんです。店主とお話があって……」
「その割には、荷物を持っていないようだが」
シルヴィオはエミーリアの荷物が少ないことに首を傾げる。店に行く時は編んだレースなどを売りに行く時だ。なのに、大きな荷物を持っていないので不思議に思ったのだろう。だが今日は商品を売りに行くわけではない。
「いや、踏み込みすぎだな。帰りは気をつけて。ちゃんと馬車を使うように」
シルヴィオは詳しく聞こうとはしない。この人が好かれるのは、こういった空気の読み方なのだろう。聞いてほしいように見えれば話を聞き、解決できるように努力してくれるし、だからといって優しすぎることもない。ほら、今だってエミーリアと一緒にいるのに女性に話しかけられて、さほどの困り事ではないと判断すると、騎士団の誰かに向かわせると言って背を向ける。
シルヴィオは女性に人気があるため、その優しさにつけ込んで誘おうとする女性に慣れていた。『問題があって』と言われてすげなくするのは騎士団長としてできない。だから話を聞いて、本当に問題であれば本人が動くし、そうでなさそうならば騎士に様子見させる。信頼できる人だと思う。だからこそとても忙しい人なのだから、エミーリアの個人的な悩みを話すわけにはいかなかった。
「エミーリア……。体調は大丈夫か?」
急に問われてハッとする。「体調? 元気です。すっごく!」とガッツポーズをしてみせれば、シルヴィオは「ならばいいんだ」と言いつつも眉を下げた。
祖母を失い、一人になったことを憂いてくれているのだ。いつもこうやって、当たり前に心配してくれる。その心がうれしかった。
(でも、聞いてくれる人は他にもいるわ。名も知らぬ誰かさんだって、相談に乗ってくれるもの)
けれど、言っておかなければ心残りになる。エミーリアは走って、馬に跨ってもうずっと先に行ってしまったシルヴィオの後を追った。
「団長さん! お伝えしたいことが」
走っても追いつけないシルヴィオに、エミーリアは大きな声を上げた。驚いたように馬の足を止めたシルヴィオが、馬を走らせ戻ってきてくれる。
「どうかしたのか!? 何か、やはり心配事が? 私でよければ聞くから」
「ええ、伝えておきたかったのです。……わたし、私は、婚約することになるでしょう」
「こん、やく?」
「貴族の方から婚約打診がありましたので、お受けしようと思っているんです。だから、もうジャムは作れないかもしれない」
「そう、なのか」
「はい。それだけお伝えしたかったんです。今まで、ありがとうございました」
エミーリアはめいいっぱいの笑顔を作って、深々と頭を下げた。
もう、簡単に会うことはないだろう。シルヴィオは団長になる前から、郊外にある祖母の屋敷の近くを見回りに来てくれていた。病気になった祖母の様子を見に屋敷に来てくれたりもしたが、もうあの屋敷には誰もいなくなる。
騎士だった頃から両親を亡くしたエミーリアを気にして、店を案内してくれたこともあった。今だって会えば挨拶をしてくれて、冗談を言ったり、商品が売れなかったら元気づけてくれたり、褒めてくれたり、様子を聞いたりしてくれた。
けれど、もう、そんな必要もなくなる。
自分のことは、自分で決めるべきだ。
「いらっしゃい。エミーリアちゃん。……決めたのかい?」
「はい。決めました」
◇
店から戻ると、白い鳥が窓際で待っていて、エミーリアは急いで窓を開けてやった。いつもよりずっと返信が早い。それがありがたかった。今までずっと文通を続けていたけれど、後少ししか続けられないのだから、もっといろいろなことを話しておけば良かったと後悔したくない。残りの日で、どれだけ往復してくれるだろう。
「この部屋とも、お別れなのよ。だから、あなたともお別れなの」
ふいに、ポツリと雫が溢れて、自分の手に落ちてきた。手紙を取ろうとしたその手が震える。白い鳥が青い瞳をこちらに向けて、小さく首を傾げた。
「なんでもないわ。あなたの目は、団長さんと同じ色なのね。深い、海のようなブルー。私が昔住んでいたところには海があったの。とても寒いところで、氷も浮かんでいるのよ。その色に似ているわ。もう、二度と行くことはないのでしょうけれど」
両親が死んで、そのうち祖母も死んでしまうと思っていたけれど、こんなに早く一人になるとは思わなかった。エミーリアはまた一人になり、この屋敷を出ることになる。
「どうして、みんな私を残していってしまうのかしら。どうして、私を一人残していくのかしら」
溢れた涙がとめどもなく流れてくる。どうして、どうしてと言っても、答える声などないとわかっているのに、どうしても口に出したい。
誰か一緒にいてくれればいい。一緒にいて、笑って過ごすことができればいい。そんな願いすら叶わない。些細な願いではないからだろうか。けれど誰かの妻になればそれも変わると言われれば、そうなのかとしか言えない。その人は、本当に自分を受け入れてくれるのだろうかと不安に感じながら。
「子爵家のご長男は、私と会ったことがないのよ。会ったことがあるのかもしれないけれど、私は存じ上げないの。それなのに、どうして私を見初めたと思う? ……レース編みがうまくて、それなりの容姿をしていて、事業に使えるからですって。他の貴族に馬鹿にされない程度の見目を持っていて、役に立つと思われたのね。でもいいわ。一目惚れしたなんて言われるより、ずっと納得できるもの。貴族の婚約なんて利益重視でしょう? 腕を買われたのだから、喜ぶべきことなのよ」
そう自分に言い聞かせる。元貴族、けれど今は平民。お金もないのに受け入れてくれるというのだから喜ばしいことだ。好きな人と結婚できなくても、利益があると思われて受け入れられるのならば、邪険にされたりしないだろう。そう思いたい。
けれど、事業と聞いて思い出したことがある。その子爵家の噂を。店主が話を持ってきてくれたが、遠慮げにその話をするのでずっと気になっていたのだ。貴族との結婚ならば、『ぜひ、どうだろうか!』と勧めてきてもおかしくないのに、そういうわけでもない。だって、その子爵家は、自社の職人に使えないと言って、暴力を振るうという噂のある家だったからだ。
「貴族の婚約打診を、平民が断ることなんて難しいわ。断って一人で生きることになっても、私ができることはレース編みだけ。子爵家の怒りを買えば、その商品だってお店に買ってもらえなくなるかもしれない」
そうしたら、エミーリアは野垂れ死ぬしかない。だから断るなんてできない。店主に待ってくれと言ったのは、ちゃんと踏ん切りをつけたかったからだ。
それでも、エミーリアの特別な人でもない貴族のシルヴィオに、心の声を伝えるなんてできない。
「だから、あなたにだけ本当のことを言っていいかしら。私、本当は団長が好きなのよ。……でも、他の人に嫁ぐわ。今度、子爵家のご長男と会うことになっているの。婚約の話をするのよ」
小さな紙に小さな文字でできるだけ書いて、エミーリアは筒の中にその手紙を入れた。白い鳥は羽を広げると、サッと羽ばたく。悠々と、まるでこの屋敷から自由になったように、空へと飛んでいく。
「ああ、私も、あんなふうに自由であれたら良かったのに……」
呟く声は誰にも届かない。エミーリアは白い鳥が見えなくなるまでその姿を見送って、目尻を拭った。
◇
普段しない化粧をして、祖母にもらったネックレスを身につけて、エミーリアは町へ足を延ばした。今日は子爵家の長男との初顔合わせで、婚約についての返事をするのだ。子爵家に呼ばれるわけではなく、町にある貴族向けのレストランで、待ち合わせをしている。
『平民を子爵家に呼びたくないみたいで』
店主がぽそりと言ったのを思い出す。なのに平民を娶ろうとするのならば、もしかして形だけの子爵夫人になるかもしれない。急に不安が押し寄せて、断りたいと喉元まで出かかったが、自分が生きるためには嫁ぐしかないこともわかっていた。エミーリアは最初から拒否できる立場ではないのだ。
部屋は個室になっていて、婚約にまつわる云々を外部に漏れさせたくないという意図と、平民と二人で会うのを見られたくないという意図が取れるようだった。そんなことを考えるだけで胸が痛くなってくるのに、もう後戻りできない。エミーリアそれを振り切るように顔を上げる。前を向かなければ。自ら縮こまっていたら、なおさら見下されるだろう。
席について、しばらく待ってみれば、やっと店の者が現れる。緊張しながら背筋を伸ばして、一度大きく息を吸って小さく吐く。
「お連れの方がいらっしゃいました」
エミーリアは立ち上がる。子爵家の長男に貴族の挨拶をして、せめて最初の印象は良くしておきたい。そんな気持ちでスカートをつまみ、片膝を曲げようとした。けれどその相手の顔を見て、唖然とした。
「……団長? どうしてここに」
やってきたのは、見間違うことはない、シルヴィオだ。しかも、いつもの騎士団の紺色の上下の衣装ではなく、金の刺繍が施された白地の上着をベルトで締めて、黒の肩掛けのマントを羽織っていた。部屋を間違えたのではないだろうか。誰かと待ち合わせをしていて……。そんなことを考えただけで胸がずきりと痛む。おしゃれな様相をしているものだから、個室で二人、デートで女性と待ち合わせしているに違いない。
「あの、私は、子爵家のご長男とお約束があってここにいるのですが、お店の方が間違って団長さんを案内したんじゃないでしょうか」
「いや、ここであっている」
シルヴィオは緊張したような顔をして首を振ると、エミーリアに近づいた。目の前に来ると、流れるように床に片膝を突く。
「団長さん??」
何事なのか。シルヴィオの視線が下になって、その端正な顔が間近に見れた。真剣そのものの表情をするシルヴィオに胸が高鳴りつつも、そろそろ子爵家の長男が来るのではないかと思うと、心がざわついて仕方がなかった。
こんな場所で、シルヴィオに会いたくなかったのに。婚約話をするのに、シルヴィオに聞かれたくないのに。そんな独りよがりな考えを持っていれば、シルヴィオから発せられたのは、耳を疑うような言葉だった。
「エミーリア、私と、結婚してもらえないだろうか」
「え……?」
聞き間違いだろうか。急に言われた言葉の意味が頭に入らなくて、右から左へ流れたような気さえした。
「あの、私は、子爵家のご長男と……」
「知っている。だから、彼には諦めてもらった。あの男は君を店の職人として家に入れるつもりだ。いや、家に入れるつもりもない。職人として職人部屋で過ごさせるつもりだ。そんな男に、君を嫁がせるわけにはいかない。君のおばあさまが亡くなられて、落ち着いたらと悠長に構えていたのがいけなかった。もっと早く、おばあさまがご存命の時に伝えるのだった。エミーリア、どうか、私と結婚してほしい」
今度こそ耳に、頭の中に入って、けれどどうしても頭の中で整理がつかなくて、エミーリアは口を開け閉めしながら目を瞬かせた。
「君を、愛している」
「だ、団長さんが、私を……?」
そんなバカなこと。けれどシルヴィオはエミーリアを、あの深いブルーの瞳を向けて、離さない。片手をエミーリアの前に伸ばし、エミーリアが受け入れるのをじっと待ちながら、どうかこの手を取ってくれないかと懇願した面持ちをした。
その姿を見て、『本当に?』という気持ちがじわじわと染み込んでくる。
「あ、わたし、私……」
「悪いが、子爵家には婚約打診を引き下げるよう伝えてある。まだ婚約が決まっていないのだから、問題ないだろう」
「けれど、私は平民で」
「そんなことは関係ない。私が、君と結婚したいんだ!」
力強く言われて、エミーリアは困惑しながらも、ハラハラと涙が流れてくるのがわかった。
シルヴィオが、エミーリアを好き? そんなこと、考えたこともなかった。少し話せるだけで心の中は舞い上がって、姿を見るだけでも心がはずむ。そんな片想いだったのに。
「子爵家の長男と会うと知って、急いでやってきたんだ。人の指定した場所に乗り込んで格好はつかないが、気持ちは本当だ。どうか、この手を取ってほしい」
シルヴィオの手が、ずっとエミーリアの手を待っている。その大きな手で、何度も助けられてきた。その手を受けて良いのだろうか。だってその手は、皆を守る手で、エミーリアだけを守る手ではない。けれど、シルヴィオはこの手を取ってほしいという。
「私、私……、あなたが、好きなんです」
嗚咽が漏れそうになりながら、掠れた声が、小さく漏れた。その小さな声でも聞こえたと、シルヴィオの顔がくしゃりと崩れる。伸ばした指先がシルヴィオのその手のひらに触れて、ゆっくりと温もりが伝わってきた。その熱を逃さないとでも言わんばかりに、シルヴィオが力強く握って、そっと手の甲に唇を近づけた。
「必ず、大切にするから」
その言葉だけで、ボロボロと涙がこぼれたのがわかった。
「結婚の申し込みはもっと早くするつもりだったんだ。実は、おばあさまにもそれは伝えていて」
「おばあさまも知っていたんですか!?」
「いつかもらいに行きたいと伝えたが、君の気持ちがない限りはダメだと叱られた」
シルヴィオは祖母が病気になったとき、見舞いの際に告げていたそうだ。けれど、その後祖母の病が進行し、それどころではなくなってしまう。祖母は病になってから亡くなるのが早かった。だから結婚話しもできず、葬儀となり、せめてエミーリアの気持ちが落ち着くまで、エミーリアの誕生日にはと思っていたら、子爵家の婚約話を耳にした。
それで急いで子爵家に圧力をかけ、レストランに駆け込んだという。
「少しでも遅かったと思うと、ぞっとする」
「でも、どこで私の婚約相手を聞かれたんですか?」
店主が言うとは思えないし、もしかして友達だろうか。けれど友達とシルヴィオが二人話す機会などはあまりないだろうし、さすがにそんな個人的な噂話はしないと思う。そう考えていると、シルヴィオはとぼけるように斜め上を見てから、にこりと笑った。
「さあ、どうしてだろうな」
よくわからないが、シルヴィオともなれば誰かからそんな噂を耳にするのかもしれない。子爵家の長男とどこかで会って、話を耳にしたのだろう。
今日はシルヴィオの両親に初めて会う日で、エミーリアは緊張しながら馬車を降りる。十八歳になった証にもらった指輪をした手を握られながら、扉の前で迎えてくれる屋敷の人々を見て、さらに緊張しそうになった。
「大丈夫だ。何の問題もない」
シルヴィオが握っていた手を強くして、エミーリアの緊張を解くように笑ってくれる。その笑顔に釣られて顔を上げた。
今日は祭りの日。エミーリアの誕生日。昔の暗く陰鬱な記憶が、新しく喜びの記念日として記憶される。
気のせいかな、どこかで聞いたことのある鳥の鳴き声を耳にしながら、エミーリアはシルヴィオと共に、屋敷に迎え入れられたのだ。




