第九十八話:定軍山の咆哮、沈みゆく魏の双璧
第九十八話:定軍山の咆哮、沈みゆく魏の双璧
執筆:町田 由美
西暦217年、春。漢中の山々は未だ深い霧に包まれていた。
私は、定軍山の対陣を見下ろす高台で、冷徹に「その時」を待っていた。
目の前には、魏の猛将・夏侯淵が守る定軍山の牙城。彼は曹操の右腕であり、魏の軍事の柱石である。だが、連日の対陣で、夏侯淵の軍は疲弊しきっていた。対して我が軍の陣営からは、影の貿易でもたらされた「最高級の肉」を焼く香りが漂い、兵たちの士気は最高潮に達していた。
「軍師、法正殿から合図が来ました。……夏侯淵、ついに我らの揺さぶりに耐えかね、山を降りました!」
若き馬謖(幼常)の声に、私は静かに羽扇を振り下ろした。
「……時が来ました。……黄忠殿、出番です」
白髪の老将・黄忠は、影の交易で手に入れた西域産の「剛弓」を手に、そして密偵の一族が鍛え上げた最高級の鋼の刀を佩いて、嵐のごとく山を駆け下りた。
夏侯淵は驚愕した。目の前の老兵が放つ気迫、そしてその背後に控える蜀の兵たちが纏う、魏軍のそれを凌駕する「装備の輝き」に。
「――夏侯淵、覚悟!」
黄忠の一閃が、霧を切り裂いた。
影の鋼で打たれた大刀は、夏侯淵の重厚な鎧を紙のように切り裂き、その一撃で魏の誇る猛将を討ち取ったのである。
「報告! 夏侯淵、討ち死に! 魏軍、総崩れにございます!」
本陣に届いた勝鬨の声。私は、劉備将軍、そして法正と共に、静かに天を仰いだ。
「……これで、曹操の顎は砕けました。……夏侯淵を失ったことは、魏にとって片腕をもがれたに等しい」
数日後。陽平関まで退いた曹操のもとへ、私は一人の使者を送った。
届けさせたのは、蜀の豊かな収穫物で作られた「極上の酒と肉」、そして一通の書状である。
『曹操殿。……この漢中は、あなたにとって食べるには肉がなく、捨てるには惜しい「鶏肋」のような土地となりました。……これ以上の無益な殺生は、天意に背くもの。……そろそろ、身の振り方を決断されるがよろしい』
曹操は、その酒を飲み、肉を口にしながら、震える手で書状を握り潰したという。
「……諸葛孔明。……貴様は私を、武力ではなく『国家の総力』でねじ伏せようというのか。……この酒の旨さ、この肉の質……蜀にはもはや、我が魏の兵站を上回る力が宿っているというのか……」
私は、定軍山の頂から、沈みゆく夕日を見つめていた。
曹操の撤退は時間の問題。漢中は、ついに私たちのものとなる。
「……士元殿。……見ていますか。……あなたの血が流れたこの地に、今、龍の旗が堂々と翻っています。……これが、私の造り上げた『蜀』という名の武器です」
中原を震撼させた漢中争奪戦は、孔明が仕掛けた「富と鋼の計略」によって、決定的な終局へと向かっていた。
劉備将軍が「漢中王」へと昇り詰める栄光の階段が、今、血と汗、そして豊かな麦の香りに包まれながら姿を現そうとしていた。




