第九十七話:陽平関の対峙、覇道と王道の激突
第九十七話:陽平関の対峙、覇道と王道の激突
執筆:町田 由美
「――何だと。張郃が敗れただと?」
漢中の陽平関。魏軍の本陣に、曹操(孟徳)の怒号が響き渡った。
六十一歳の曹操は、白髪の混じった髭を震わせ、届けられた蜀軍の折れた槍の穂先を手に取った。
「この鋼の輝き……これはただの鉄ではない。西域の鉄に、特殊な鍛錬を施したものだ。……蜀の山奥に、これほどの品を揃える力があるというのか」
曹操は、自ら十万の大軍を率いて、定軍山を望む平原へと進出した。
そこで彼を待ち受けていたのは、整然と並ぶ蜀の軍列であった。
かつての劉備軍は、藁靴を履き、布の鎧を纏う、泥臭い軍勢であったはず。しかし、今、曹操の眼前に広がるのは、影の貿易によって得た最高級の武具を纏い、自国の麦と野菜で強靭に鍛え上げられた、非の打ち所のない「精鋭」たちであった。
私は、劉備将軍の傍らに立ち、静かに羽扇を仰いだ。
「……曹操殿。……驚かれましたか。……これが、あなたが侮り、追い回し続けてきた『草の根の民』が築き上げた、真の国の姿です」
私は、法正と共に練り上げた「攻防一体」の陣を敷いた。
前面には、影の資金で雇い、鍛え上げた重装歩兵。その後方には、蜀の豊かな収穫に支えられた弓兵たちが、矢を惜しむことなく番えている。
「全軍、突撃せよ! 蜀の付け焼き刃を粉砕せよ!」
曹操の命により、魏の誇る騎馬隊が砂塵を巻き上げて突進してくる。
だが、私は動じない。
「……張飛殿、馬超殿。……今です。……彼らが飢えと疲労で集中力を欠いた、その瞬間に」
戦端が開かれると、魏軍はすぐに異変に気づいた。
蜀の兵たちは、一人一人が驚異的な体力を誇っていた。影からもたらされた滋養の薬草、そして毎日欠かさず与えられた高タンパクな食糧が、極限の山岳戦において、魏軍との決定的な差となっていた。
さらに、影の交易で手に入れた「強力な弩」が、魏の自慢の甲冑を易々と貫いていく。
「――おのれ、諸葛孔明! 貴様、どこでこれほどの軍勢を……!」
曹操は、本陣の丘の上で唇を噛み締めた。
彼が知る「軍師」は、計略や伏兵を使う者であった。しかし、目の前の孔明は、国家の「富」そのものを武器として、曹操の覇道を正面から押し返している。
私は、曹操の視線を感じながら、心の中で亡き龐統(士元)に語りかけた。
(……士元殿。……見ていますか。……あなたが命を散らしたこの地で、我らはついに曹操と対等に、いや、それ以上の力で対峙しています。……これは復讐ではない。……新たな時代への、確かな一歩です)
夕闇が迫る頃、魏軍は一度も蜀の陣を崩せぬまま、陽平関へと撤退を余儀なくされた。
戦場に立ち込めるのは、魏軍の絶望の呻きと、蜀軍が陣地で炊き上げる、芳醇な麦飯の香りであった。
「……将軍。……曹操は今、確信したはずです。……蜀を呑み込もうとすれば、自らの顎が砕けることを」
彼は、自らが一年かけて地下深くへと張り巡らせた「影の根」が、ついに中原を揺らす巨大な樹へと成長したことを、漢中の冷たい風の中で実感していた。
だが、戦いはまだ序章に過ぎない。
曹操は、この屈辱を晴らすべく、さらなる奸計を練り始める。
そして私は、その曹操の裏をかくため、さらなる「経済の刃」を研ぎ澄ませる。




