第九十六話:瓦口関の咆哮、鋼の軍団の真価
第九十六話:瓦口関の咆哮、鋼の軍団の真価
執筆:町田 由美
漢中の峻険な山々に、魏の将・張郃率いる三万の精鋭が足を踏み入れていた。
張郃は確信していた。漢中を奪った今、蜀などは風前の灯火。劉備軍は食糧に乏しく、装備も劣る、寄せ集めの軍勢に過ぎないと。
だが、瓦口関の隘路で彼を待ち受けていたのは、その常識を根底から覆す光景であった。
「――報告! 正面に蜀の伏兵! 旗印は『張』……張飛です!」
張郃は冷笑した。「あの猪武者か。山の中に誘い込み、兵糧攻めにすれば容易い」。だが、現れた張飛の軍勢を見て、張郃の目は驚愕に見開かれた。
兵たちの顔は血色良く、寒風の中でもその体からは熱気が立ち昇っている。何より異様なのはその装備だ。影の貿易でもたらされた特級の鉄鉱石で打たれた鎧は、夕闇の中で鈍く黒光りし、魏軍の並の矢をことごとく弾き返した。
「――野郎ども、腹はくちいか! 武器の調子はどうだ!」
張飛の雷鳴のような咆哮が谷間に響く。
「軍師が用意してくれた最高の麦と野菜、そしてこの『鋼の蛇矛』……曹操の連中に味見させてやろうぜ!」
激突の瞬間、勝敗は一気に決した。
魏の兵たちが遠征の疲労と寒さで動きを鈍らせる中、蜀の精鋭たちは、影の交易で得た「滋養の薬湯」の効果か、疲労を知らぬ鬼神の如き動きで魏軍を蹂躙した。
さらに、別動隊を率いる馬超(孟起)が、西域の名馬を駆って張郃の背後を突く。
「……これが、孔明殿の言っていた『経済の力』か。……この馬の足、この槍の貫通力。西涼にいた頃の私ですら、これほどの準備はできなかった!」
馬超の槍が閃くたび、魏軍の陣形は紙細工のように破られた。
その頃、本陣の丘。
私は、劉備将軍、そして法正と共に、この圧倒的な戦況を冷静に眺めていた。
「軍師……信じられん。あの張郃の精鋭が、手も足も出ず敗走していく。……これが、あなたが一年かけて密かに築き上げた『裏の国造り』の結果なのですか」
法正の震える声に、私は静かに羽扇を仰いだ。
「……法正殿。戦いとは、ただ敵を斬ることではありません。……より良い麦を食べ、より鋭い鋼を持った者が勝つ。……それが天下の理です。……私はただ、その理を成都の地で淡々と形にしたに過ぎません」
敗走する張郃を追い詰めながら、私は次の指示を飛ばした。
「追撃は深追いするな。……敵に『蜀軍は底知れぬ富と力を隠し持っている』という恐怖を植え付けるだけでいい。……曹操自身が漢中へ出てくるまで、この圧倒的な物量の差を見せつけ続けるのです」
彼の目には、単なる一戦の勝利ではなく、その背後で崩れ去る曹操の「無敵の神話」が見えていた。
「……将軍。これより、本格的な漢中争奪戦が始まります。……曹操が『鶏肋』、すなわち、捨てるには惜しく、食べるには身のない土地だと嘆くその日まで、私はこの鋼の兵站を回し続けます」
西暦215年。
瓦口関の地には、魏兵の骸ではなく、蜀軍の「新生」を告げる鬨の声が響き渡った。
知略と、富と、鋼。
龍が操る三つの刃が、ついに中原の覇者・曹操の心臓部へと突き立てられようとしていた。




