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『諸葛孔明 星辰の理(ことわり)』  作者: velvetcondor guild


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第九十三話:深淵の監視者、見えざる宿敵の胎動

第九十三話:深淵の監視者、見えざる宿敵の胎動


執筆:町田 由美


 成都の政庁は、漢中から迫る曹操の軍圧と、荊州を狙う孫権の野心に揺れていた。

 私は、連日、法正や蒋琬と共に地図を囲み、防衛線を練り直していた。だが、その日の深夜、密偵一号がもたらした報せは、これまでの戦況報告とは異質の、不気味な手触りを伴っていた。

 「軍師……北の魏において、気になる動きがございます」

 蝋燭の火が、密偵の沈痛な面持ちを照らし出す。

 「曹操の側近といえば、かつては郭嘉かくか殿、そして荀彧じゅんいく殿が知略の双璧。郭嘉殿こそが魏の最高の軍師であり、彼が生きていれば赤壁の勝敗も分からなかった……。ですが今、その空席を埋めるように、一人の男が静かに台頭しております」

 私は羽扇の手を止め、密偵を見据えた。

 「……誰だ。荀攸じゅんゆうか? それとも賈詡かくか?」

 「いえ、名は司馬懿しばい、字は仲達。……表向きは目立った軍功もなく、曹丕そうひ殿の教育係や文学官として、ひたすら影を潜めております。曹操は彼の『狼顧の相(首を真後ろまで回して周囲を警戒する姿)』を忌み嫌い、重用を避けているようですが……」

 密偵は言葉を選びながら続けた。

 「……奇妙なのです。彼はどれほど冷遇されようとも、決して不満を見せず、ただひたすら政務の末端を完璧にこなし、曹一族の内懐に根を伸ばしている。……まるで、曹操という巨木が枯れるのを、百年待つ覚悟でいるかのように」

 私は、背筋に薄寒いものを感じた。

 これまで対峙してきた曹操の軍師たちは、郭嘉にせよ、その才は「閃光」の如く、天を焦がす鋭さを持っていた。だが、この司馬懿という男は、光を放たない。光を吸い込む「深淵」そのものではないか。

 「……司馬懿、仲達か。……郭嘉殿が『攻めの極致』であったなら、その男は『守りの深淵』となるかもしれぬ。……今はまだ曹操の影に隠れているが、一度その牙を剥けば、天下のことわりさえも書き換えてしまうだろう」

 私は、傍らに控えていた馬謖(幼常)に目を向けた。

 「幼常殿。聞きなさい。……世には、私やあなたのように、理想を掲げて国を立てる者がいる。だが、それとは対極に、ただ生き残り、時を食らうことで勝者となろうとする怪物がいる。……司馬仲達、この名を忘れてはならない」

 馬謖は若さゆえの不敵な笑みを浮かべた。

 「軍師、案ずることはありません。そんな陰に潜むだけの男、あなたの知略の前には無力に等しい。……曹操が死ねば、魏など烏合の衆です」

 私は答えなかった。

 私には、予感があった。

 自分が「いかに国を立てるか」を、正道と法によって証明しようとしている一方で、司馬懿という男は「いかに権力を食い破るか」を、沈黙の中で学び取っている。それは、私の「美学」を最も根底から破壊しうる、恐るべき存在だと。

 「……よし。密偵一号、引き続きその男を監視せよ。……どんな小さな蟄居ちっきょの報せも見逃すな」

 私は再び筆を執り、戦略書に一文を書き加えた。

 『北に潜む影、名。司馬仲達。油断は死を招く』

 漢中の戦雲が低く垂れ込める中、私は、まだ見ぬ宿敵の存在を魂に刻み込んだ。

 表では曹操の大軍が押し寄せ、東では孫権が裏切り、そして地底では司馬懿という根が、ひたひたと三國の土を侵食し始めている。

 「……ゆきましょう、子龍殿。……天下は、我らが思うよりも、遥かに深く、昏い」

 龍の目は、北の暗雲を突き抜け、数十年後の戦場までもを見据えるかのように鋭く光った。



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