第九十二話:軍神の拒絶、長江を染める決裂
第九十二話:軍神の拒絶、長江を染める決裂
執筆:町田 由美
荊州、公安の城。
私が成都で流した涙の乾かぬうちに、兄・諸葛瑾は歓喜の面持ちでこの地に辿り着いた。彼の懐には、劉備将軍直筆の「三郡返還」の命令書がある。兄にとって、それは家族の命を繋ぐ黄金の鍵に見えたに違いない。
だが、関羽雲長は、その「鍵」を鼻先で笑い飛ばした。
「――返還だと? 笑わせるな、子瑜殿」
関羽殿は玉座にどっしりと腰を下ろし、青龍偃月刀を傍らに、届けられた書状を床に投げ捨てた。
「この荊州は、我が兄上が百戦錬磨の末に手に入れ、私が死を賭して守り抜いてきた大地。たとえ主君の命であろうとも、戦場の実情を知らぬ机上の空論には従えぬ。……土地が欲しければ、軍師・孔明をここに連れてこい。軍師自らが目の前で割印を押さぬ限り、一寸の土も呉には渡さぬ!」
兄・瑾は絶句し、震える声で叫んだ。
「雲長殿! これは将軍の、そして弟・孔明が涙ながらに願ったことなのだぞ! 貴公は主君の命を背くというのか!」
「……背くのではない。戦場の『理』を説いているのだ。帰れ、子瑜殿。……命があるうちに、長江を渡るがいい」
兄は成都での私の涙が、そしてこの書状が、関羽という「不抜の壁」に阻まれるための壮大な芝居であったことに、この時ようやく気づいたのかもしれない。
兄・諸葛瑾は、這々の体で呉へと逃げ戻り、孫権に全てを報告した。
報告を聞いた孫権の怒りは、まさに雷鳴の如くであった。
「――諸葛孔明、私を愚弄したか! 兄弟で示し合わせ、私に空の手形を掴ませるとは!」
孫権は即座に、呉の若き猛将・呂蒙を呼び出した。
「呂蒙よ、もはや交渉は無用だ! 長沙、零陵、桂陽の三郡を、武力で奪い取れ。関羽が動くなら、そのまま荊州全土を飲み込んでも構わぬ!」
呂蒙は、密かに磨き上げていた牙を剥いた。
「承知いたしました、主公。……関羽は強く、孔明は賢い。ですが、彼らは蜀に目を向けすぎている。今こそ、荊州の背後を抉る好機にございます」
一方、成都。
私は、密偵から「兄の失敗」と「呉の出兵」の報を受け、静かに羽扇を動かした。
「始まりました。……孫権殿が本気で兵を動かした。……これで、私の『次の一手』を打つ理由が整いました」
傍らで控えていた蒋琬が、緊張した声で問う。
「軍師……。呉と戦うのですか? 曹操が漢中で張魯を追い詰めている今、呉と事を構えれば挟み撃ちになります!」
「……いいえ、公琰(蒋琬)。戦うのは、最後の一瞬だけでいい」
私の知略の極致とも言える「二正面外交の転換」を決断した。
呉に三郡を「奪わせる」ことで彼らの怒りを一旦鎮め、同時に曹操が漢中を完全に手に入れる前に、全軍を漢中へと反転させる。
「趙雲(子龍)殿、馬超(孟起)殿! 兵をまとめなさい。……我らはこれより、長江を下り、公安へ向かうと見せかけて、密かに北の漢中へと牙を研ぐ。……呉の孫権殿には、長沙と桂陽を『進呈』してやりなさい。……小さな土地で彼らの目を眩ませ、その隙に我らは天下の喉元、漢中を奪うのです!」
私は、兄を泣かせ、孫権を怒らせ、関羽を盾にした。その全ての「不義」を背負いながら、私は蜀という国が真に生き残るための、唯一の細い道を見定めていた。
「……士元殿。……あなたなら、もっと速く、もっと残酷にこの道を選んだでしょう。……私は、あなたの後を追うように、この血塗られた盤面を完成させてみせます」
西暦215年、夏。
長江には呉の軍船が溢れ、北の関所からは曹操の足音が響く。
三國の均衡が、今、孔明という一人の軍師の指先一つで、決定的な破滅と新生へと向かって揺れ動こうとしていた。




