第九十一話:諸葛の兄弟、涙に隠した虚実
第九十一話:諸葛の兄弟、涙に隠した虚実
執筆:町田 由美
成都の城門に、呉の使節団が到着した。
その先頭に立つのは、私の実兄、諸葛瑾である。
私は、政庁の門前で兄を待った。傍らには、私の意図をすべて察している馬良(季常)と、緊張の面持ちで控える若き馬謖(幼常)の姿がある。
馬車から降り立った兄の姿を見て、私は胸が締め付けられるような思いがした。兄・瑾は呉の重臣として孫権の信頼厚い彼だが、その頬は痩せ、苦渋の色が滲んでいる。呉に残された兄の妻子が、この交渉の成否によって人質同然の扱いを受けていることを、私の密偵はすでに伝えていた。
「……孔明。久しぶりだな」
「……兄上。よくぞ、遠路はるばるお越しくださいました」
私たちは公衆の面前では儀礼的な挨拶を交わしたが、一歩奥の私邸に入った瞬間、兄は私の手を取り、崩れ落ちるように膝をついた。
「孔明! 頼む、この通りだ。荊州の三郡(長沙・零陵・桂陽)を返してくれ! さもなくば、私の妻も子も、孫権殿の怒りに触れて命を失うことになる。……兄弟の情けがあるなら、どうか、どうか……!」
兄の涙は本物であった。だが、私は知っている。これもまた、孫権が「諸葛瑾なら孔明を動かせる」と踏んで仕掛けた冷徹な外交戦術であることを。
私は、すぐさま劉備将軍と、法正を同席させた。
ここからが、私が描いた「芝居」の本番である。
「兄上、お立ちください。……将軍! お聞きください、私の兄のこの悲痛な叫びを。……もし荊州を返さねば、私の唯一の肉親とその家族が処刑されます。……どうか、土地を返し、私の身内の命を救ってください!」
私は、兄と共に床に伏し、声を上げて泣き伏した。
劉備将軍は、あらかじめの打ち合わせ通り、困り果てた顔で法正と目を見合わせた。
「……孔明殿、そう言われても困る。荊州は関羽が命懸けで守っている土地だ。私が勝手に返せと言えば、雲長が承知せぬだろう」
「そこを何とか! 将軍、恩義ある私の兄なのです!」
泣き叫ぶ私の姿に、兄・瑾も必死に縋り付く。
しばらく続いたこの凄惨な「泣き落とし」の末、劉備将軍は重い口を開いた。
「……分かった。孔明殿の顔に免じて、まずは三郡(長沙、桂陽、零陵)を返そう。ただし! 関羽の許可を得ることが条件だ。孔明殿、すぐに私が書いた『返還命令の書状』を兄上に渡しなさい」
兄は、震える手でその書状を受け取った。
「おお……! 将軍、孔明、恩に着る。これで家族が助かる……!」
兄は喜び勇んで成都を去っていった。
だが、彼が去った後の室内で、私は涙を拭い、冷徹な軍師の顔に戻った。
法正が、ニヤリと笑いながら私を見た。
「……軍師、お見事ですな。あの書状、関羽殿が素直に受け取るとは到底思えませぬ」
私は、羽扇を静かに仰いだ。
「……ええ。雲長殿には、すでにもう一通、別の『戦略書』を届けてあります。……『将軍、私は兄のために泣いて書状を書きましたが、あなたはあなたの義務を果たしなさい』と。……雲長殿は必ずや、『土地を返すなら、孔明が直接取りに来い』と言って追い返すでしょう」
これが、孔明の仕掛けた時間稼ぎであった。
曹操が漢中に迫る中、呉との全面戦争を避けるために、まずは「返す意志がある」という形だけを作り、実際には関羽の剛毅さを盾にして土地を渡さない。
「兄上には申し訳ないが、これも国を守るため。……だが、孫権殿も馬鹿ではない。この欺瞞が露見した時、彼らは本当の牙を剥く。……その時までに、我らは漢中の曹操を叩く準備を整えねばならない」
彼は、血を分けた兄の涙さえも、巨大な国家戦略の「駒」として利用した。
龍の心は、凍えるような冷徹さと、引き裂かれるような悲しみの狭間で、いよいよ激動の三国時代を支配し始める。




