第九十話:深更の密議、三國を揺るがす闇の報せ
第九十話:深更の密議、三國を揺るがす闇の報せ
執筆:町田 由美
成都の政庁、その北隅にある密室。
私は、一振りの蝋燭の炎を見つめながら、影のように現れた三人の密偵の声に耳を傾けていた。蒋琬や法正ら表の重臣たちにも聞かせられぬ、天下の「真実」がここにある。
「報告せよ。まずは北、曹操の動きだ」
密偵一号が、低い声で言った。
「――曹操、ついに動き出しました。昨年末に馬超殿の残党を完全に掃討し、北西を固めた彼は今、十万の大軍を率いて漢中の張魯へ牙を剥いています。狙いは明白。漢中を奪い、そこを足がかりに、この益州へと雪崩れ込む腹づもりです」
私は、手元の地図の「漢中」という文字に、鋭く爪を立てた。
「……やはりか。馬超殿を我らが手に入れたことで、曹操は『蜀が盤石になる前に叩く』と決断したのだな。漢中は益州の喉元。あそこを曹操に奪われれば、我らは常に喉に刃を突きつけられた状態になる」
続いて、密偵二号が東の報せを口にする。その内容は、さらに私の胸を締め付けた。
「――東の孫権、これもまた不穏にございます。彼らは劉璋殿の降伏を知るや否や、掌を返しました。周瑜亡き後の重鎮・魯粛殿が、関羽将軍の守る荊州三郡――長沙、零陵、桂陽の即時返還を強く求めています。さらに……」
「さらに、何だ?」
「孫権は、呂蒙に命じ、密かに数万の兵を国境付近へ集結させています。交渉が決裂すれば、同盟を破り、武力で荊州を切り取る構えです」
私は、深く溜息をつき、目を閉じた。
兄・諸葛瑾が成都へ向かっているという報せは、この「武力行使」を背景にした最後通牒に他ならない。
「……曹操は漢中から、孫権は荊州から。……我らが蜀を得た喜びを、彼らは一瞬で絶望に変えようとしているのだな。……雲長殿は、どう答えた」
「関羽将軍は、『領土のことは軍師に聞け。我に言えるのは、この青龍偃月刀が呉の犬どもを斬り捨てるということだけだ』と一蹴なさいました」
「……ああ、雲長殿……。それでは火に油を注ぐようなものだ」
私は、荊州に残した「八文字の覚書」を思い出した。『東和孫権』。自尊心の高い関羽殿にとって、それがどれほど難しいことか分かっていたはずなのに。
私は、密偵三号に顔を向けた。
「最後だ。成都内部の動向は?」
「蒋琬殿、董和殿ら新任の文官たちは忠実に職務をこなしております。しかし、旧劉璋配下の豪族たちは、曹操の漢中接近に怯え、早くも魏への内通を画策する動きが見られます。黄権殿や法正殿が目を光らせておりますが、一度戦端が開けば、内から崩れる恐れも……」
一刻ほど続いた報告会が終わる頃、蝋燭は短く溶け落ちていた。
私は立ち上がり、窓から見える暗い夜空を見上げた。
「……諸官を呼びなさい。特に蒋琬、法正、そして馬良。……これから始まるのは、蜀を守るための、史上最も困難な『二正面外交』だ」
私は、すぐさま筆を執り、関羽殿への密書、そして馬超殿への出陣準備命令、さらに兄・諸葛瑾を迎えるための「芝居」の台本を書き上げ始めた。
「……曹操、孫権。……貴公らがそう来るならば、私はこの蜀の山々を、貴公らの野心の墓場にしてみせよう。……士元殿、見ていてくれ。あなたの命と引き換えに得たこの国を、私は一寸たりとも削らせはしない」
私は、冷たい夜風の中で羽扇を強く握りしめた。
平定の祝杯は、一滴も残っていない。
あるのは、三國が正面衝突する、血塗られた未来への覚悟だけであった。




