第八十八話:白眉の賢才、若き参謀の胎動
第八十八話:白眉の賢才、若き参謀の胎動
執筆:町田 由美
成都の政庁に、新たな風が吹き込んでいた。
私が蜀の編纂に没頭していたその傍らには、荊州時代から私を支え、共に西へと入った一人の男がいた。
馬良、字は季常。その眉に白い毛が混じっていたことから「白眉」と称された、馬氏五兄弟の中でも最も優れた知者である。
「軍師。各郡からの徴税記録、及び土地の再検地の報告書がまとまりました。……法の適用も、これによって不公平がなくなります」
馬良は、整然と並べられた竹簡を私の机に置いた。彼の仕事は常に正確で、私の意図を言わずとも汲み取ってくれる。
「……助かります、季常殿。あなたが成都の事務を統括してくれているからこそ、私は次の戦略に集中できる。……あなたは私の右腕だ」
「……身に余る光栄です。ですが、私の弟――幼常(馬謖)についても、そろそろお考えをいただけますでしょうか」
馬良の言葉に、私は顔を上げた。
当時、二十代半ばであった馬謖(幼常)。彼は兄たちと共に荊州で劉備軍に加わり、その才気溢れる軍事論で、私の注目を浴びていた。この時期、馬謖は成都の近郊、綿竹の県令(知事)を務めながら、実戦と政務の経験を積んでいたのである。
「幼常殿か。……彼は、法典の理論よりも、兵法の機微を語ることに類まれな才を持っている。……先日、彼から届いた『南方の反乱に対する鎮圧策』の覚書も、実に見事なものでした」
私は、馬謖を成都へと呼び戻した。
私にとって、馬謖は単なる部下ではなく、自らの知略を継承させたい「愛弟子」のような存在になりつつあった。
「幼常殿。県令としての仕事はどうか。民の声は聞こえているか」
「軍師! 事務的な政務も重要ですが、私はもっと……戦の根幹、心理の揺さぶりについて、あなたの側で学びたいのです。……兵法とは、ただの陣形ではなく、人心の掌握。……そうでしょう?」
馬謖の瞳には、かつての自分を見るような瑞々しさと、それゆえの「危ういまでの自信」が宿っていた。私は彼の才能を愛しながらも、その性格を案じ、あえて厳しい課題を与え続けた。
「……ならば、幼常殿。あなたはこれより、馬超殿と共に北の国境へ赴き、曹操軍の動きを『兵法的な視点』で分析し、逐一私に報告なさい。……現場を知らぬ理論は、砂上の楼閣に過ぎない」
馬良は成都に留まり、内政の要として私を支える。
馬謖は辺境に飛び、実戦の空気の中でその才を研ぎ澄ませる。
私は、自らが育て上げたこの若き「知の芽」たちが、将来、私の両翼となって天下を羽ばたく日を夢見ていた。
しかし、そんな穏やかな時間は長くは続かなかった。
「――軍師! 荊州の関羽殿より、緊急の密使です!」
馬良が青ざめた顔で走り込んできた。
「……呉の孫権が、蜀の平定を祝うという名目で、使者・諸葛瑾殿を送ってきました。……ですが、その真の目的は『荊州三郡の返還』。……拒めば、即座に兵を動かすとの脅しです!」
私の兄、諸葛瑾。
兄弟でありながら、敵味方に分かれた宿命の二人が、外交という名の刃を交える時が来た。
「……季常殿。……やはり来ましたか。……兄上を矢面に立たせるとは、孫権殿も人が悪い。……だが、一寸の土地も渡すわけにはいかない」
彼は、自らが育てた馬良、馬謖という盾を背に、肉親との非情な外交交渉、そして荊州の危機という巨大な荒波に立ち向かう。
龍の平穏は終わり、三國の均衡を揺るがす「知略の応酬」が、再び幕を開けようとしていた。




