第八十五話:散りゆく密書、張松の血の遺言
第八十五話:散りゆく密書、張松の血の遺言
執筆:町田 由美
成都の城内。そこには、戦場の怒号よりも恐ろしい「静かなる死」が忍び寄っていた。
蜀を劉備に譲り渡すべく、暗躍を続けてきた張松。彼は、龐統(士元)が戦死し、劉備軍が成都へ向けて進軍を開始したという報を聞き、最後の仕上げに掛かろうとしていた。
「……士元殿は死んだ。だが、龍の歩みは止まらぬ。今こそ、私が内から門を開く時だ」
張松は震える手で、劉備将軍へ向けた「成都の守備兵配置図」と、内応を約束する豪族たちの名を記した密書を書き上げた。だが、運命はあまりに無慈悲であった。
その密書を運ぼうとした彼の兄・張粛が、一族の連座を恐れ、密告に走ったのである。
「――張松、反逆の疑いあり! 即刻捕らえよ!」
劉璋の命を受けた兵たちが、張松の屋敷を包囲した。
張松は、逃げることさえせず、ただ書き上げたばかりの密書を懐に抱き、冷たく笑った。
「……劉璋殿。あなたは良い人だが、この乱世を統べる器ではない。……私が流す血が、蜀の民を救う肥料となるなら、喜んでこの首を差し出そう」
西暦214年。張松は、成都の市中にて一族郎党と共に処刑された。
その首が城門に晒されたという報せは、瞬く間に包囲軍の陣営に届いた。
私は、本陣で法正と共に、その悲報を聴いた。
法正は、張松と共に蜀を売る計略を立てた唯一無二の同志であった。彼は、机を叩いて号泣した。
「……張松殿! あなたがいたからこそ、我らは将軍を迎えることができた。……なぜ、あとわずかな時間が、あなたには与えられなかったのか!」
私は、法正の肩に静かに手を置いた。
「……法正殿。……張松殿の死を、無駄にしてはなりません。……彼は死の直前まで、私に、そして将軍に『早く来い』と叫んでいたのです。……彼が命を懸けて守ろうとした成都の民を、一刻も早く戦火から救い出す。それが我らの責務です」
私は、馬超、張飛、趙雲の三将を呼び寄せた。
「将軍方、聞きなさい。……張松殿の処刑により、成都の豪族たちは恐れ戦いています。……ですが、これは彼らが『次は我が身か』と疑心暗鬼に陥っている証拠。……今こそ、馬超殿を先頭に立て、全軍で城壁を包囲なさい。……武力を見せつけつつ、同時に『降伏する者は一切不問に処す』という布告を出すのです」
馬超の圧倒的な威圧感。張飛の咆哮。趙雲の整然たる軍列。
そして、その中央に立つ軍師・諸葛孔明の冷徹なる采配。
張松の死によって、蜀の豪族たちの心は劉璋から完全に離れた。
「張松を殺した劉璋に付き従えば、我らも殺される。……ならば、劉備将軍に道を譲ろう」
内部崩壊は、音もなく始まった。
張松が蒔いた血の種が、成都の門を内側から腐食させていく。
私は、法正と共に、張松の霊を弔うための祭壇を設けた。
「……士元殿。……そして張松殿。……あなた方が歩んだ暗い道の先に、今、ようやく光が見えてきました。……私が、その光を絶やすことなく、この成都に法の秩序を打ち立ててみせます」
彼は、友の死を一つ、また一つと積み重ねながら、その重みを背負って玉座へと近づいていく。
成都の巨大な城門が、ついに絶望の呻き声を上げながら、ゆっくりと開こうとしていた。




