第八十四話:西涼の錦、龍の門に帰す
第八十四話:西涼の錦、龍の門に帰す
執筆:町田 由美
成都の包囲が完成しつつある中、北の国境・葭萌関に激震が走った。
「――馬超が来た。西涼の猛虎が、張魯の加勢としてこちらへ牙を剥いている」
私は、本陣でその報告を受け、静かに羽扇を動かした。
馬超孟起。かつて曹操の肝を冷やし、その髭を切り落とさせるまで追い詰めた男。だが、彼の背負う運命はあまりに過酷であった。
父・馬騰は許都で曹操に謀殺され、一族のほとんどを処刑された。復讐に燃えて潼関で蜂起したものの、曹操の「離間の計」にかかり、同盟者であった韓遂とも決裂。行き場を失った彼は、漢中の張魯のもとへ身を寄せていたのである。
「軍師、馬超の武勇は人間にあらず。……あの張飛殿と一騎打ちを演じ、数昼夜戦っても決着がつかぬほどの怪物です。……力でねじ伏せるのは至難の業かと」
趙雲(子龍)の言葉に、私は頷いた。
「左様。馬超は今、行き場のない怒りを抱えているだけなのです。……彼は張魯に利用されているに過ぎない。……ならば、その『居場所のなさ』こそが、我らの付け入る隙となります」
私の知略を研ぎ澄ませ、二つの工作を開始した。
一つは、漢中の張魯の側近である楊松へ多額の賄賂を送り、馬超が「蜀を乗っ取ろうとしている」という讒言を流させること。
そしてもう一つは、馬超本人へ送る、私の魂を込めた一通の書状であった。
私は書状に、徐庶(元直)から届いていた馬騰謀殺の真実、そして曹操という共通の仇敵を討つためには、今ここで劉備将軍と手を取り合う以外に道はないことを、切々と、しかし力強く綴った。
(……馬超殿。あなたは西涼の誇り。……だが、張魯のような器の小さな男のもとで朽ち果てて良いお人ではない。……あなたの槍は、天下を安んじるためにあるべきだ)
数日後。漢中からの讒言により、張魯から疑われ、退路を断たれた馬超は、前も後ろも敵という絶望の淵に立たされた。
そこへ、私の密使が書状を届けたのである。
馬超はその書を読み、天を仰いで慟哭したという。
「……諸葛孔明。……私の父の死の真相を知り、なおも私を『西涼の錦』として迎えるというのか」
翌朝、劉備軍の本陣。
砂塵を巻き上げ、一騎の武者が近づいてきた。白銀の鎧に獅子の兜、手には一丈八尺の銘槍。
馬超は馬から降りると、劉備将軍の前で膝を突き、その頭を地面に寄せた。
「――西涼の馬超、これまでの非礼をお詫び申す! ……此度、劉備将軍の徳に打たれ、この命、これより将軍に捧げる覚悟にございます!」
劉備将軍は駆け寄り、馬超の肩を抱き上げた。
「……よくぞ、よくぞ来てくれた、孟起殿! 君を得たことは、私にとって益州を得るよりも心強い!」
私は、その光景を少し離れた場所から見守っていた。
傍らには、馬超と死闘を演じたばかりの張飛が、清々しい顔で笑っている。
「……軍師、あんたの筆一本で、あの怪物が味方になるとはな。……俺の蛇矛の出番がなくなるじゃねえか」
「……翼徳殿。……武で屈服させた者はいつか裏切るが、心で結ばれた者は死を共にする。……これで、成都への『最後の一押し』が揃いました」
馬超、馬岱、そして西涼の精鋭たちが加わった劉備軍。
その威容は、もはや成都の劉璋が抗えるレベルを超えていた。
「……全軍、成都へ。……戦わずして勝つ。……それが、私の描く最後の大詰めです」
彼は、血を流す代わりに「縁」を繋ぎ、復讐に燃える猛虎を、義に生きる龍の臣へと変えた。
成都の城門が、恐怖と希望の狭間で、今まさに軋みながら開こうとしていた。




