第八十二話:千里の知略、戦略書に託す覇道
第八十二話:千里の知略、戦略書に託す覇道
執筆:町田 由美
荊州の北門を越え、蜀へと向かう進軍の途上。私は、馬を止め、夕闇に沈む長江を振り返った。
先ほど関羽殿の掌に刻んだ「北拒曹操、東和孫権」の八文字。だが、関羽殿のあの誇り高い瞳の奥に宿る、呉に対する根深い不信感を私は見逃さなかった。
(……言葉だけでは足りぬ。……人の心は移ろいやすく、戦況は一刻を争う。私が蜀の奥深くに入れば、情報の伝達は途絶えがちになる。……ならば、私の分身となる『知』を、それぞれの将に遺さねばならぬ)
私は、進軍を一時停止させ、陣中に天幕を張るよう命じた。
趙雲(子龍)が怪訝な顔で歩み寄る。
「軍師、急ぎ成都へ向かうのではなかったのですか?」
「子龍殿。……急がば回れ、です。……今、私がこの数刻を惜しんで筆を執らねば、後の数年を失うことになりかねない」
私の全知能を研ぎ澄ませ、数通の「戦略書(覚書)」を書き始めた。
それは単なる作戦指示ではない。相手の性格、陥りやすい罠、地形の変化、さらには数ヶ月後の気候までも予見した、いわば「未来の設計図」であった。
第一の書は、荊州を守る関羽殿へ。
そこには、呉の孫権が送り込んでくるであろう使者への対応、特に「婚姻の申し入れ」があった際の断り方まで、一字一句を峻烈に、しかし礼を失せぬよう記した。
「雲長殿。……あなたの誇りは、時には毒となります。……この書を、迷った時の鏡としてくだされ」
第二の書は、陸路を行く張飛殿へ。
酒を慎むべき時、そして捕らえた蜀の将を処断せず、いかにして「心」を奪うべきか。厳顔を心服させた彼の成長をさらに促す、人心掌握の極意を説いた。
第三の書は、趙雲殿へ。
「あなたは完璧すぎるが故に、無茶をなされる。……若君・阿斗様の守護と、江州の確保後の補給路の維持。……その要を、この書に託します」趙雲殿に自ら手渡す。
書き終えた時、夜は白々と明け始めていた。私は密偵一号をはじめとする影の者たちを呼び寄せた。
「……この書を、それぞれの将に届けよ。……誰にも見せてはならぬ。……そして、将が命を誤ろうとした時のみ、その封を切るよう進言せよ」
密偵たちは無言で頷き、霧の中に溶けるように消えていった。
私は、自らの頭脳を細分化し、千里の彼方まで配置し終えた安堵感とともに、再び馬に跨った。
「……ゆきましょう、子龍殿。……これで、私の体は荊州に残り、魂は蜀へ先行し、今のこの身は将軍のもとへ急ぐことができる。……三位一体。……これが、私の描く天下三分の陣形です」
趙雲は、軍師のその徹底した知略に戦慄を覚えながらも、深い敬意を込めて鞭を当てた。
「……軍師。あなたは、人間を超えようとしておられるのか」
「……いいえ、子龍殿。……私は、友・士元殿が命を懸けて繋いだこの糸を、絶対に断ち切りたくないだけなのです」
龍の咆哮が、朝靄を切り裂く。
陸を行く張飛の軍、水を行く趙雲の軍、そして空を翔ける孔明の知略。
死した鳳凰の魂に導かれるようにして、最強の布陣が、ついに成都の喉元・雒城へと迫り狂う。
龐統の死という悲劇を糧に、劉備軍は今、真の「国家」としての形を成し、益州の大地を揺るがし始めた。




