第八十一話:不抜の双璧、荊州に遺す言の葉
第八十一話:不抜の双璧、荊州に遺す言の葉
執筆:町田 由美
荊州の大手門前。西へ向かう軍勢の砂塵が舞う中、私は、一人の巨人の前に立っていた。
関羽雲長。その手に握られた青龍偃月刀が、冬の陽光を浴びて冷たく輝いている。
「雲長殿。……これより私、そして翼徳、子龍は蜀へ入ります。……ここ荊州は、我らの夢の根幹。それを守れるのは、この天下にあなた以外にはおらぬ」
関羽殿は長い髭を撫で、重厚な声で応じた。
「……軍師、案ずるな。曹操が来れば北の盾となり、孫権が来れば東の壁となろう。この関雲長、死を賭して守り抜く」
私は、その言葉に満足せず、さらに一歩歩み寄った。
「……いいえ、雲長殿。武勇だけでは足りぬのです。……私があなたに遺す、この地を守るための『八文字の秘策』を、どうか魂に刻んでいただきたい」
私は関羽殿の掌を借り、指先で静かに文字を書き込んだ。
『北拒曹操、東和孫権(北は曹操を拒み、東は孫権と和す)』
「……雲長殿。曹操に対しては一歩も引かぬ『武』を。しかし、孫権に対しては、たとえ腹立たしきことがあろうとも、忍の字をもって『和』を保ちなさい。……この均衡が崩れた時、荊州は落ち、我らの覇道は潰えます。……約束してくださいますか」
関羽殿の瞳に、一瞬の鋭い光が走った。傲岸不遜とも言える彼の自尊心が、呉との「和」にどう応じるか。……彼は深く頷き、地を這うような声で答えた。
「……承知した。軍師の言葉、肝に銘じよう」
この「八文字」を託し、私はついに、張飛と趙雲を従えて西へと動き出した。
進軍が始まれば、そこからは二将の独壇場であった。
まず陸路を行く張飛殿。
彼は「龐統先生の仇を討つ!」と叫びながら、益州の関所を文字通り砕き割っていった。
難所・江州を守る老将・厳顔を捕らえた際、張飛殿はかつての粗暴さを捨て、礼を尽くして彼を味方に引き入れた。
「……済まなんだ、老将軍。貴公のような義人を荒っぽく扱った俺を許してくれ」
この張飛の変貌。私は、伝令からその報を聞き、胸が熱くなるのを感じた。
(……翼徳殿。あなたはもう、ただの猛将ではない。……国を支える『大将』となられたのだ)
一方、水路を行く趙雲殿の働きは、まさに天を舞う銀龍の如し。
趙雲殿は、長江の急流をものともせず、先陣を切って敵の軍船を次々と沈めていった。
「……軍師、伏兵はすべて掃討いたしました。……成都への道、一刻の遅れも許しません」
返り血を浴びてもなお、その立ち姿は清廉な趙雲。彼は、蜀の兵たちが「長坂坡の英雄だ!」と戦慄する中を、無敵の勢いで突き進んでいく。
私は、張飛の「仁」と趙雲の「勇」、そして自分が関羽に遺した「策」が、大きな歯車となって三國を動かし始めたことを確信していた。
「子龍殿。……急ぎましょう。……将軍が、落鳳坡の悲しみの中で我らを待っている」
荊州に遺した不安を、関羽への信頼で塗り潰し、孔明は蜀という新天地を手中に入れるべく、咆哮する双龍と共に成都へと迫る。




