第八十話:落鳳の星、血塗られた進軍
第八十話:落鳳の星、血塗られた進軍
執筆:町田 由美
荊州の夜空を、血のように赤い流星が横切った。
私は、物見櫓の上で、その光が西の果てに消えるのを言葉もなく見つめていた。胸を締め付けるような動悸。これは単なる占術の結果ではない。私の半身とも言える「知」の友、龐統士元の命が、今まさに風前の灯火にあることを魂が告げていた。
「軍師、まだここに……。夜風が冷え込みます。中へお入りください」
趙雲(子龍)が羽織を手に階段を上がってきた。だが、私の視線は一点から動かない。
「……子龍殿。見ましたか、今の星を。……鳳凰が地に墜ちる予兆です。……私の警告の文は、まだ届かぬのか。……士元殿、なぜそれほどに急ぐのです。あなたが死んでは、将軍の『徳』を誰が支えるというのですか」
私は狂ったように筆を執り、追加の密書を書き殴った。
『士元殿、直ちに軍を止めよ。地勢を見れば、そこは袋の鼠となる。……私の占いを信じろ、これ以上進んではならぬ!』
だが、その叫びは、荊州の霧の中に虚しく消えていく。
龐統が馬を変えた理由は、玄徳にとって、不吉な兆しを避けるためである。
雒県へ向かう途上、道が険しく伏兵の恐れがあった。
龐統は玄徳の馬に乗って進軍したが、谷間で伏兵の矢を受け戦死した。
このため後世では、馬を変えたことが運命の転換として語られている。
その頃、蜀の地。
龐統は、劉備将軍から貸し与えられた白馬に跨り、険しき山道を突き進んでいた。
「軍師、この道はあまりに狭い。伏兵の恐れがあります。一度引き返しましょう」
先鋒を務める魏延(文長)が珍しく慎重な声を上げたが、龐統はそれを鼻で笑った。
「くく……。魏延よ、お前まで孔明のような臆病風に吹かれたか。曹操が馬超に足止めされている今、一日遅れれば一日の損だ。この道を抜ければ、成都の喉元。……一気に勝負を決めるのだ」
龐統の脳裏には、荊州で法を編み、基盤を固める姿があった。
(孔明……。お前は美しすぎる。お前には、この泥まみれの簒奪戦は似合わない。……将軍を『王』にするための血の汚れは、すべて私が持っていく。……私が死ねば、将軍は劉璋を討つための『弔い合戦』という最大の大義名分を手にするのだ)
龐統は最初から悟っていた。自分の命こそが、劉備が蜀を奪うための最後の「供物」であることを。
ふと、彼は馬を止め、道端の石碑に目をやった。
苔むした石には、古びた文字で**『落鳳坡』**と刻まれていた。
「……落鳳……。鳳凰が墜ちる坂、か。……ふふ、私のための墓標にしては、出来すぎている」
その刹那、山上の静寂が破られた。
「――放てッ!」
蜀の将・張任の号令とともに、断崖から数万の矢が雨のように降り注いだ。
「軍師! 伏兵だ! 盾を構えろ!」
魏延の叫びも虚しく、龐統の体には、一瞬のうちに数十本の矢が突き刺さった。
白い馬は真っ赤に染まり、龐統は静かに天を仰いだ。
視界が霞む中、彼は遠い東の空、荊州にいるはずの友に語りかけた。
(……孔明。……あとは、頼んだぞ。……将軍を、高みへ……)
鳳凰は、その命の灯火を蜀の山道で散らした。
数日後。荊州の館に、血に汚れた早馬が辿り着いた。
報告を聞いた瞬間、私は手にした羽扇を地面に落とした。
「……士元殿……」
私の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
それは、私の知略の一部が死んだことを意味していた。
「……雲長殿、翼徳殿、子龍殿。……準備をなさい。……我らはこれより、蜀へ入る。……友の血を、無駄にはさせぬ」
彼は「静」の守護者であることを辞め、ついに自ら「動」の戦場へと足を踏み出す決意を固めた。
荊州の門が開く。
龍が、友の無念を背負い、益州の山々へと牙を剥くための大行軍が、今まさに始まろうとしていた。




