第七十九話:中計の果実、偽りの退却
第七十九話:中計の果実、偽りの退却
執筆:町田 由美
龐統が劉備に進言した益州攻略の三策。
上策は劉璋を急襲し成都を一気に制圧する策である。
中策は要地を押さえつつ段階的に進軍する策である。
下策は時間をかけ人心を得ながら勢力を拡大する策である。
涪城の軍議は、龐統(士元)が提示した「三計」のうち、中計を採択することで決着を見た。
徐庶の密書――曹操が馬超の対応に追われているという決定的な報せが、劉備将軍の背中を力強く、そして残酷に押し切ったのである。
「――全軍、直ちに撤収の支度をせよ! 荊州に急変あり、我らはこれより益州を去る!」
陣中に劉備将軍の号令が響き渡った。だが、これは龐統が描いた「偽装」であった。
蜀の関所を守る忠臣・楊懐と高沛を誘い出し、彼らの警戒心を解くための罠。将軍の「徳」を重んじる顔の裏で、龐統という闇の知略が、冷徹に獲物を網へと追い込んでいく。
「くく……将軍、それで良いのです。……嘘も重ねれば大義となる。……あなたが蜀を去ると聞けば、あの二匹の老いぼれ(楊懐・高沛)は、必ずや祝杯を持って見送りに現れます」
龐統は、傍らに控える黄忠と魏延に密かに目配せをした。
「漢升殿、文長殿。……刃を隠しておけ。……奴らが将軍の前に膝をついた瞬間、この蜀の山を、奴らの血で赤く染め上げるのだ」
一方、千里離れた荊州。
私は、館の庭にある池の水面を見つめていた。
「軍師。西へ向かった龐統殿から、進軍開始の密告がありました。……将軍は、中計を選ばれたようです」
趙雲(子龍)の言葉に、私は静かに頷いた。
「……やはり、そうなりましたか。……士元殿は、将軍の『情』を汚さぬよう、自らがすべての泥を被る道を選んだ。……将軍が『中計』を選んだのは、それが最も『言い訳』の立つ血の道だからです」
私は、手にしていた法典の草案を固く握りしめた。
三十三歳の今の私には、わかる。
龐統の焦り。そして、彼が背負おうとしている「業」の深さが。
「子龍殿。……私は、昨晩、不吉な夢を見ました。……西の空に、一つの巨星が墜ちる夢を」
「……軍師、それは不吉な。……龐統殿のことですか」
「……鳳凰は、その命を燃やし尽くして、初めて一国の礎となる。……彼は、自分が死ぬことさえも、将軍に蜀を奪わせるための『最後の大義』にしようとしているのではないか。……そう思えてならないのです」
私はすぐさま、追加の密書を書き始めた。
『士元殿、功を急いではならない。進軍には必ず裏がある。……私の占術では、西の地に不吉な気が満ちている』
だが、その書状が届くよりも早く、蜀の地では血の祝宴が始まろうとしていた。
涪城の城門前。
劉備軍の撤退を信じ込み、安堵の表情で酒を携えて現れた楊懐と高沛。
「劉備殿、残念ではあるが、荊州の危急とあらば致し方なし。……我らが見送りいたそう」
「……かたじけない」
劉備将軍の顔は、苦渋に満ちていた。
その刹那。
「――今だ! 捕らえよ!」
龐統の鋭い声が響くと同時に、黄忠と魏延が風のように躍り出た。
「なっ、何をする! 劉備、貴様、我らを欺いたか!」
楊懐の叫びは、魏延の刃によって一瞬で断たれた。
高沛の首もまた、黄忠の放った矢に貫かれ、砂塵の中に転がった。
「全軍! 矛を返せ! ……これより、成都へ向けて進撃を開始する!」
龐統の勝ち誇ったような咆哮が、蜀の山々にこだました。
孔明が懸念していた、取り返しのつかない「血の幕開け」。
荊州で静かに法を刻む孔明と、蜀で血の雨を降らせる龐統。
二つの龍鳳の運命が、この瞬間、決定的な「別れ」へと向かって加速し始めた。




