第七十八話:鳳雛の三計、蜀を呑む暗雲
第七十八話:鳳雛の三計、蜀を呑む暗雲
執筆:町田 由美
蜀の要衝・涪城。降り続く冷たい雨は、幕舎を叩く音さえも、死を告げる太鼓のように響かせていた。
孔明から届いた密書――「馬騰の死と馬超の挙兵」という極秘情報は、劉備軍の首脳陣に戦慄と、同時に残酷なまでの好機をもたらした。
「――将軍。孔明の文を読みましたな。もはや、猶予は一刻もありませぬ」
龐統(士元)は、劉備将軍の目の前に、三本の竹簡を叩きつけるように並べた。
その瞳には、血に飢えた鳳凰のような鋭い光が宿っている。
「今の将軍に必要なのは、迷いではなく、この『三つの計』のうち、どれを選ぶかという冷徹な決断のみにございます。……聞きなされ、これが蜀を奪い、天下を三分するための、私の全知略だ」
龐統は、一本目の竹簡を指差した。
「【上計】。 今すぐ精鋭を選び、昼夜を問わず進軍して成都を急襲する。劉璋殿は不意を突かれ、防御を整える暇もなく降伏するでしょう。最も血を流さず、最も速く蜀を手にする策。しかし、これには『奇襲』という不義の汚名が付きまとう」
劉備の眉間が深く刻まれた。それを無視して、龐統は二本目を手に取る。
「【中計】。 蜀の関所を守る二人の将、楊懐と高沛。彼らは劉璋の忠臣だが、将軍を疑っている。まず、彼らに『荊州に危機が迫ったので帰国する』と偽りの別れを告げる。彼らが油断して見送りに来たところを捕らえ、その兵を奪い、勢いに乗って成都へ進む。これならば、大義名分を保ちつつ、着実に勝利を掴める」
最後に、龐統は三本目を冷たく放り投げた。
「【下計】。 一度白帝城まで退き、荊州の孔明と合流して大軍で攻め直す。だが、これは最悪の策。時間をかければ曹操が馬超を片付け、その大軍が蜀に雪崩れ込む。……さあ、選びなされ! どの道を行くも将軍次第だが、迷えば、ここが我らの墓場となる!」
沈黙が、幕舎の中を支配した。
劉備将軍の脳裏には、荊州で別れた、孔明の言葉が蘇っていた。
『……将軍。……私は荊州で、あなたの背中を守る盾となります。……どうか、西では士元殿という矛を信じ、ためらわずに突き進んでください』
孔明は知っていたのだ。自分のような「光」の軍師では、この泥沼の蜀入りを完遂できないことを。だからこそ、自分と同等の知略を持ちながら、より過激で非情な手段を選べる龐統を、この戦場に送り込んだ。
(……孔明殿。……私は、君の期待に応えねばならぬのだな。……たとえ、この手がどれほど汚れることになっても)
「……士元殿。……『上計』は急ぎすぎだ。蜀の民に、我らを侵略者と思わせては、その後の統治が立ち行かぬ。……私は『中計』を採る。楊懐と高沛を斬り、その大義をもって蜀を救おう」
その言葉を聞いた瞬間、龐統は不気味な歓喜の声を上げた。
「くく……! 決まりましたな。……魏延! 黄忠! 聞いたか! 刃を研げ。……明日、蜀の関所の門を、我らの主君のために血の色で塗り替えるぞ!」
一方、千里離れた荊州の地。
孔明は、館の物見櫓に立ち、西の空を見つめていた。
「……動き出しましたか、士元殿」
傍らで控える趙雲(子龍)が、沈痛な面持ちで問う。
「軍師。龐統殿は、あえて将軍に『中計』を選ばせるように仕向けたのではありませんか。……上計はあまりに過激、下計はあまりに愚策。……将軍の性格を読み切って、最初から血の道を歩ませるために」
私は、羽扇を静かに閉じ、冷たい夜風を受け止めた。
「……それが、鳳凰の愛し方なのです、子龍殿。……彼は、将軍の『徳』を守るために、自分が『悪』の役割をすべて引き受けようとしている。……私が、ここで法の編纂に専念できるのも、彼が西で地獄を歩いてくれているからです」
孔明の瞳には、悲しみと、それを上回る冷徹な決意が宿っていた。
西暦212年。
蜀の地で、ついに「最初の一撃」が放たれた。
龐統の描いた中計により、関所の将たちが誘い出され、その首が飛ぶ。
それは、劉備という名の大義名分が、初めて「王」としての冷酷な爪を現した瞬間であった。




