第七十七話:鳳凰の決断、涪城(ふうじょう)の火種
第七十七話:鳳凰の決断、涪城の火種
執筆:町田 由美
蜀の要衝、涪城。
劉備将軍の陣営に、荊州からの早馬が飛び込んだのは、冷たい雨が降りしきる夜のことであった。
「軍師! 孔明殿からの密書です!」
孔明が認めたその書状を奪い取るように受け取ったのは、龐統(士元)であった。彼は蝋燭の火を近づけ、一気に読み進める。その醜い顔に、不気味な笑みが、じわじわと、しかし深く刻まれていった。
「……くく、孔明め。荊州に居ながらにして、天下の動脈をすべて握っているとはな。……将軍、お聞きくだされ。曹操は西涼の馬騰を殺し、嫡子の馬超が怒りに狂って潼関へ押し寄せた。今、中原は火の海だ。曹操は馬超という若き猛虎を鎮めるのに手一杯で、ここ蜀を顧みる余裕など一分もありませぬ!」
龐統は書状を劉備将軍の鼻先に突きつけた。
「将軍、迷う余地はありません。孔明が言う通り、これは天が与えた千載一遇の好機。劉璋殿との無意味な宴、無意味な贈り物など、今この瞬間に捨てなさい! 今こそ軍を反転させ、成都への道を力ずくで抉じ開けるのです!」
劉備将軍の表情は、激しく揺れ動いた。
「……しかし、士元。馬騰殿の死は哀れだが、それとこれとは別だ。私は劉璋殿を張魯から救うために来たのだ。同族を背後から撃つような真似が、人道として許されると思うか」
「人道、人道と! そんなものは、天下を安んじた後に説けばよい!」
龐統の怒号が幕舎を揺らした。
「あなたが躊躇えば、馬超が敗れた後、曹操の大軍がこの肥沃な蜀へ雪崩れ込む。その時、劉璋殿に何ができますか? 彼に民を守る力がありますか? 無能な者に国を持たせておくことこそ、民に対する最大の罪悪だ! ……孔明が荊州で、関羽、張飛、趙雲を留め置き、不眠不休で後方を固めているのは、何のためだと思っているのです!」
劉備は沈黙した。
脳裏に浮かぶのは、荊州で別れた、あの三十三歳の若き軍師の涼やかな瞳。
「……孔明殿も、同じ考えなのか」
「左様! 孔明はあえて言葉を濁していますが、この密書に込められた意図は一つ。『今すぐ蜀を奪え』。それ以外にありません!」
その頃、荊州の孔明は、館の奥深くで法典の編纂を止めていなかった。
傍らで控える趙雲(子龍)が、静かに問う。
「……軍師。士元殿は、あなたの密書を読み、強硬手段に出るでしょう。それは、将軍の『徳』を傷つけることになりませんか」
私は、筆を置かずに答えた。
「子龍殿。……将軍の徳は、私がここで守り続けます。……しかし、国を興すには、誰かが『闇』を歩かねばならない。……士元殿は、その役割を自ら引き受けてくれたのです。……彼が蜀で流す血は、将来、この国が法の秩序で満たされるための、いわば代償なのです」
涪城の陣。
龐統は、立ち上がろうとしない劉備を睨みつけ、最後の最後、毒の混じった言葉を吐いた。
「……将軍。あなたが動かぬなら、私は明日、劉璋殿との宴で、魏延に命じて奴を刺させます。……あなたが手を汚したくないのなら、すべて私の独断として、後世の罵声を私が引き受けましょう」
「士元! 待て、それは……!」
「決断をなされ、劉玄徳将軍! ……曹操が来るか、あなたが王になるか。道は二つに一つだ!」
外では、黄忠の率いる老練な兵たちが、雨の中で武器を研ぐ音が響いていた。
魏延はすでに、龐統の合図一つで跳ねる準備を整えている。
孔明が荊州から送った一通の密書が、ついに蜀という巨大な扉を、内側から爆発させようとしていた。




