第七十六話:北西の嵐、密使が運ぶ血の予感
第七十六話:北西の嵐、密使が運ぶ血の予感
執筆:町田 由美
荊州の冬は、底冷えする霧に包まれていた。
私は、深夜の執務室で、蝋燭の火を絶やさず、西へ向かった龐統からの戦況報告を読み耽っていた。だがその時、趙雲が連れてきた一人の男が、私の思考を止めた。
男は全身を泥と雪に塗れさせ、息を切らしていた。その懐から取り出されたのは、色褪せた、しかし懐かしい筆跡の封書であった。
「……これは、元直(徐庶)殿からか」
封を切り、文字を追うごとに、私の指先がわずかに冷たくなった。
かつて三顧の礼の前に、劉備将軍のもとにいた私の無二の友。今は曹操の軍門に降り、沈黙を守り続けているはずの徐庶からの「命懸けの密書」であった。
『孔明、友よ。曹操は今、南への野心を一時的に抑え、その矛先を西の馬騰へ向けている。曹操は馬騰を許都に誘い出し、謀殺しようと目論んでいる。馬騰が倒れれば、西涼の猛獅子・馬超は必ずや報復に立ち上がるだろう。……これは、天下の均衡が崩れる前触れだ。蜀へ入るなら、今をおいて他にない。曹操が馬超の対応に追われている隙を突け。友として、これが私が君に送れる最後の灯火だ』
私は密書を蝋燭の火にくべた。
徐庶。彼は曹操のもとにいながら、なおも劉備将軍の覇業を、そして私の描く「天下三分」を案じてくれていたのだ。
「子龍殿、見ておきなさい。……曹操は馬騰を殺し、北西を固めようとしている。だが、それは同時に、自らが抱える『最大の火種』に自ら火を放つ行為だ」
翌朝、さらに追い打ちをかけるような報せが、密偵から届いた。
西涼の太守・馬騰が、曹操の罠に嵌まり、許都にてその命を散らしたという。そして、その嫡子・馬超が怒髪天を突き、西涼の精鋭を率いて潼関へと押し寄せているというのだ。
「……私には、これが天の配剤にしか見えぬ」
私は再び筆を執り、蜀の地で劉璋との停滞した外交に苦慮している龐統と、劉備将軍へ向けて、一刻を争う密書を綴った。
『将軍、士元殿。北西にて馬超が立ちました。曹操は今、馬超という猛虎を鎮めるために全力を注がねばならず、蜀を振り返る余裕はありません。……もはや、劉璋殿の顔色を窺う時期は過ぎました。今こそ、一気に進軍し、益州の喉元を締めるべきです。これは、元直殿が命を懸けて教えてくれた好機。迷えば、馬超が敗れた後に曹操の大軍が蜀に押し寄せます。そうなれば、我らに勝機はありません』
私は窓を開け、冷たい風を吸い込んだ。
私は、荊州という盤石な盾を守りながら、同時に北西の馬超、そして西の龐統という二つの「剣」が、曹操という巨人を翻弄する姿を脳裏に描いていた。
「翼徳(張飛)殿、雲長(関羽)殿! 兵の訓練を倍にしなさい。……曹操が馬超と戦っている間に、我らは蜀を我がものとし、天下の鼎の足を、完全に三本揃えるのです!」
孔明の声が、冬の空気に鋭く響いた。
徐庶の友情、馬騰の死、馬超の怒り。
それらすべての要素が、孔明の頭脳の中で一つの「必然」へと収束していく。
蜀の山々に潜む龍が、ついにその眠りを解き、天へと昇るための風が吹き始めていた。




