第七十五話:截江奪阿斗、長江の波濤
第七十五話:截江奪阿斗、長江の波濤
執筆:町田 由美
荊州は、不穏な風に震えていた。
私は、執務室で一通の報告を受け、即座に立ち上がった。
「――孫夫人が、若君を連れて呉の船に乗り込んだだと?」
密偵一号の報告によれば、呉の孫権は「母の危篤」という偽りの知らせを妹に送り、混乱に乗じて劉備将軍の嫡子・阿斗を人質として奪おうとしている。これは明らかに、将来の蜀入りを見越した呉の外交的恫喝であった。
「子龍殿、翼徳殿! 一刻を争います。……夫人の船を、長江の真ん中で止めなさい。阿斗様を呉へ渡せば、将軍の背後は永遠に孫権に握られることになる!」
趙雲(子龍)は、返事をする間もなく白馬を飛ばした。
彼は単身、長江の岸辺へと駆け、一艘の小舟を奪うようにして漕ぎ出した。荒れ狂う波を越え、呉の巨大な軍船に飛び移るその姿は、赤壁で戦ったあの時の輝きを失っていない。
「夫人! 若君を置いていかれよ!」
趙雲の叫びが船上に響く。孫夫人は冷たく言い放つ。
「私は兄の命により呉へ帰る。それを阻む者は、呉と戦う覚悟があるということか!」
趙雲が孤立無援で囲まれたその時、川下から地鳴りのような咆哮が響き渡った。
「――関の張翼徳、ここにあり! 我が兄の跡継ぎを連れ去る奴バラは、この蛇矛が相手だ!」
張飛が率いる別動隊の船が、退路を断つように呉の船団の鼻先に突き刺さった。
私は、館の物見櫓からその様子を静かに見守っていた。
張飛の凄まじい威圧感と、趙雲の揺るぎない覚悟。
二人の猛将に挟まれ、孫夫人はついに、抱いていた阿斗を趙雲に託さざるを得なかった。
「……いいでしょう。若君は返します。……ですが、これで劉備と我が兄の縁は、完全に断たれたと思いなさい」
孫夫人の船は、阿斗を置いて東へと消えていった。
趙雲が阿斗をしっかりと抱き抱え、張飛と共に桟橋へ戻ってきた時、私は深く息を吐き、彼らを迎えた。
「……見事でした。お二人とも」
「軍師、悪いな。夫人は逃がしてしまった」
張飛が頭を掻きながら言うが、私は静かに首を振った。
「……それで良いのです。夫人を討てば戦争になる。……若君さえ取り戻せば、我らの勝利です。……これで将軍は、後ろめたさを一切捨てて、蜀を手にすることができる」
私は、奪い返した阿斗の小さな手を見つめながら、改めて自らに言い聞かせた。
(……士元殿。……あなたが西で振るう剣の輝きを守るために、私はここで、泥を被り、縁を切り、非情な秩序を敷き続けましょう)
この夜、劉備軍と呉の「蜜月」は終わりを告げた。
それは、天下が真に「三つ」に分かれるための、避けられぬ別れであった。




