第七十四話:蜀への最終決断
第七十四話:蜀への最終決断
執筆:町田 由美
荊州は、張り詰めた糸のような緊張感に包まれていた。
張松殿の手引きにより、益州から密かに送り込まれた一人の男――法正。彼は、劉璋殿の臣でありながら、その冷徹なまでの先見明で「蜀の救世主」を探し求めていた。
私は、法正を劉備将軍の前に出す前に、まず私の執務室へと招き入れた。
「……諸葛孔明殿。お初にお目にかかる」
法正の瞳には、一切の迷いがなかった。
「単刀直入に申し上げよう。曹操軍が、北の漢中を狙っている。張魯を破れば、そのまま蜀へ雪崩れ込むのは火を見るより明らかだ。劉璋殿は震えておられる。今、将軍が蜀に入らねば、益州は曹操のものとなる」
私は、法正という男の「合理的な冷徹さ」を好ましく思った。
「……法正殿。……あなたの言葉は、我らが必要としていた最後の『大義』です」
私は、法正を丁寧に案内し、劉備将軍が待つ奥座敷へと送り込んだ。
「将軍。……益州の命運を握る男、法正殿です。……じっくりとお話をお聞きください」
法正が部屋に入り、扉が閉まる。
その瞬間、私は庭の暗がりに控えていた龐統(士元)に目配せをした。
「……士元殿。……準備は良いですか。……将軍の『仁義の殻』を破れるのは、あなたの毒だけだ」
「くく……。孔明、お前は相変わらず汚れ仕事を私に押し付けるな」
龐統は、その醜い顔を歪めて笑うと、法正との面会が終わるのを見計らい、嵐のように劉備将軍の部屋へ踏み込んだ。
部屋の中では、法正の言葉に衝撃を受けた劉備将軍が、地図を前に立ち尽くしていた。
「曹操が来るというのか……。だが、やはり劉璋殿を騙して蜀を奪うなど……」
「――将軍! まだそんな寝ぼけたことを言っているのですか!」
龐統の怒号が響いた。
「あなたが躊躇えば、蜀の民は曹操の蹄に踏みにじられる! それがあなたの言う『仁』か? あなたが劉璋殿から国を奪うのではない。あなたが、蜀の民を地獄から奪い返すのだ! 天が与えるものを取らぬのは、天に対する罪だ!」
隣室でその声を聞きながら、私は静かに軍令を書き留めていた。
龐統が将軍の心を「破壊」し、私がその後に「秩序」を築く。二人の軍師による、完全なる連環。
やがて、部屋の扉が静かに開いた。
出てきた劉備将軍の顔には、もはや迷いはなかった。その瞳には、一国の主としての冷徹な覚悟が宿っていた。
「……孔明殿。……出陣の準備を」
「……承知いたしました。先鋒は黄忠、そして魏延。士元殿が軍師として同行いたします」
「……ゆこう。……蜀の民が、私を待っている」
私は、羽扇を静かに閉じ、法正と龐統に向かって深く一礼した。
大義は成った。曹操という「外敵」、法正という「内応」、そして龐統という「劇薬」。すべての糸を操り、ついに仁義の檻に閉じ込められていた龍を、西の空へと解き放ったのだ。




