第七十三話:鳳雛の毒、臥龍の器
第七十三話:鳳雛の毒、臥龍の器
執筆:町田 由美
荊州の夜風は、どこか湿り気を帯びていた。
黄忠将軍を先鋒に据え、蜀への遠征軍がその輪郭を現し始めた頃。私は一人、月明かりの下で地図を広げていた。
「……ふん。相変わらず、綺麗すぎる絵図を描く男だ」
背後から、皮肉に満ちた低い声が響いた。
振り返るまでもない。私の竹林に、音もなく踏み込んできたのは、鳳雛――龐統(士元)であった。
「……士元殿。……お聞きになっていたのですね。黄将軍を先鋒に選んだ私の意図を」
龐統は、ひび割れた盃を弄びながら、私の向かいにどっかと腰を下ろした。
「老将を立てて『仁』を説くか。劉璋を安心させるための、孔明らしい『優しい嘘』だ。……だが、それだけで益州という巨大な果実が、お前の掌に落ちるとでも思っているのか?」
私は静かに羽扇を動かし、夜の静寂を払った。
「……いいえ。……黄将軍は、あくまで盾であり、希望です。……ですが、蜀の複雑な力関係を切り裂くには、別の『刃』が必要になる。……それは、私のような男には振るえぬ刃だ」
龐統の瞳が、月光を反射して鋭く光った。
「……ほう。私に、その『汚れ仕事』を負えと言うのだな?」
私は視線を地図の西端、険しき蜀の山々へと移した。
「……劉備将軍は、未だ『親族である劉璋殿から国を奪う』という一点において、心を痛めておられる。……その仁義の殻は、あまりに硬く、そして尊い。……私がその殻を無理に壊せば、将軍の魂そのものが死んでしまうでしょう」
私は、龐統の目をじっと見据えた。
「……士元殿。……あなたにしかできない役割がある。……あなたが『毒』となり、将軍の耳元で真実を囁くのです。……聖人君子の仮面を剥ぎ、一国の覇者としての血を呼び覚ます。……その役目、受けていただけますか」
龐統は、しばらく沈黙した後、天を仰いで声を殺して笑った。
「くく……。臥龍は天に昇り、鳳凰は泥を這え、というか。……面白い。お前が『光』を司るというのなら、私は喜んで『影』となろう。……法正という男が、まもなくここへ来る。……その時が、将軍の覚悟を問う最後の審判だ」
「……感謝いたします。……あなたが軍師として蜀へ同行することで、天下三分の計は、初めて実りをもたらす」
龐統は立ち上がり、闇の中へと消えていった。
その背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。
まもなく、法正が来る。
そして、龐統という劇薬が、劉備将軍の心に最後の一撃を加えるだろう。
私は再び地図に目を落とした。
「……ゆきましょう、士元殿。……この荊州から、歴史を大きく動かす、乾坤一擲の旅へ」
静寂が戻った庭で、私はただ一人、西から吹く風を肌で感じていた。
蜀の天を射抜く黄忠の弓と、人の心を抉る龐統の知略。
その二つが揃った時、時代はついに、劉備という男を「王」への道へと押し流し始めるのだ。




