第七十二話:白髪の猛将、蜀への先鋒
第七十二話:白髪の猛将、蜀への先鋒
執筆:町田 由美
荊州の演武場。
劉備将軍が蜀への遠征を決意したその翌朝、そこには一人の老兵が、黙々と弓を引き絞る姿があった。
黄忠。字は漢升。
すでに還暦をとうに越えたその白髪は、朝日に銀色に輝いている。だが、彼が放った矢は、百歩先の的に吸い込まれるように当たり、その衝撃で的を粉々に砕いた。
「……見事な腕前ですな、黄将軍」
私が声をかけると、黄忠は静かに弓を下ろし、深く一礼した。
「軍師。老いさらばえたこの身、蜀への遠征にお供させていただけるのでしょうか。……世間では、私を隠居させるべきだとの声もあるようですが」
その言葉には、武人としての誇りと、少しの寂しさが混じっていた。
私は、彼の衰えを知らぬ筋肉と、戦場を幾度も生き抜いた者だけが持つ「知恵の宿る瞳」をじっと見つめた。
「……いいえ、黄将軍。……私は、あなたにこそ『先鋒』を任せたい。……若き将の勢いも必要ですが、蜀の険しき山々、複雑な関所を抜けるには、あなたの老練な経験と、山野を射抜くその弓が必要なのです」
私は、劉備将軍のもとへ彼を連れて行った。
将軍は少し驚いた顔をされたが、私が黄忠の起用を強く進言すると、深く頷かれた。
「漢升、そなたの力、信じているぞ。蜀の民に、我らの軍にはこれほどの勇士がいることを見せてやってくれ」
黄忠の瞳に、熱い火が灯った。
「……御意! この老骨、劉備将軍と軍師のために、蜀の道を血で清めて参りましょう!」
そしてもう一人、魏延(文長)もまた、孔明の采配によって蜀への路を切り拓く刃として選ばれた。
関羽殿は荊州の守護、張飛殿は後方支援。
そして、先陣を切るのは、老将・黄忠と、野心溢れる魏延。
蜀の険しき山脈を越え、葭萌関へと向かう長い道のり。
黄忠という「老いてなお不滅の武」が先頭に立つことで、劉備軍は「経験」という名の無敵の盾を手に入れたのだ。
「……ゆきましょう、黄将軍。……あなたの弓が、益州の天を射抜く時、天下三分の計は、完成へと大きく近づく」
孔明の号令とともに、白髪の猛将を先頭にした劉備軍の長蛇が、荊州の地をゆっくりと、しかし力強く踏み出した。
黄忠の背中を見つめながら、私は確信していた。
この老兵こそが、成都の主・劉璋を、そして後に立ちはだかる曹操の将たちを、震え上がらせる最大の「恐怖」になることを。




