第七十一話:荊州の秋、仁義の檻を解く
第七十一話:荊州の秋、仁義の檻を解く
執筆:町田 由美
秋の夜長。荊州の館に、重苦しい沈黙が満ちていた。
主君・劉備(玄徳)将軍は、庭の枯れ木を見つめたまま、微動だにしない。私の差し出した益州遠征の献策は、机の上で冷たく月光を浴びていた。
「……孔明殿。二度と、その話はしないでくれ。劉璋殿は私と同じ漢室の末裔だ。困窮している親族の懐を狙うなど、人間のすることではない。そんなことをすれば、私は天下に顔向けができぬ」
私は、将軍のその「美しすぎる弱点」を愛し、同時に危惧していた。
言葉で説得しても無駄だ。彼に必要なのは、理屈ではなく「悲鳴」である。私は、あらかじめ趙雲(子龍)に命じておいた「ある客人」を、館へと招き入れさせた。
曹操に「容姿が卑しい」と辱められ、命からがら逃げてきた益州の使者、張松である。
趙雲が、張松を丁寧に支えて部屋に入ってきた。その姿は、埃にまみれ、曹操から受けた棒叩きの傷が痛むのか、足取りは覚束ない。だが、その瞳には、曹操への復讐心と、最後の希望が狂おしいほどに燃えていた。
劉備将軍は、反射的に立ち上がった。
「……おお、張松殿か。なんと無惨な姿を……。曹操め、これほどの大才を、犬のように扱うとは!」
将軍は自らの上着を脱ぎ、張松の細い肩にかけた。私はその様子を無言で見守る。
「張松殿、まずは飲みなさい。……ここは荊州だ。あなたの『才』を汚す者は、ここには一人もいない」
それからの三日間、私はあえて「蜀」という言葉を禁じた。
劉備将軍は、張松を隣に座らせ、自ら酒を注ぎ、その博識に耳を傾けた。張松の心が、将軍の無私の「徳」に触れて、じわじわと、しかし確実に溶けていくのを私は確信した。
三日目の夜。
張松は、ついに堪えきれず、杯を床に叩きつけた。
「――将軍! なぜ、なぜこれほどお優しいのですか!」
「……ただ、あなたの受けた傷が、私の心をも痛めるからだ」
その言葉が、張松の最後の堤防を決壊させた。
「劉璋殿は暗愚です! 臣下は私腹を肥やし、民は曹操がいつ攻めてくるかと、震えて眠る日々! 将軍、あなたが来なければ、蜀は滅びます! 漢室の末裔を名乗るなら、なぜ、蜀の民を見捨てておくのですか!」
張松は、震える手で懐から一巻の地図を広げた。
「これは益州の、私の命よりも大切な機密にございます。道筋、兵糧、城の弱点……すべて記しました。……どうか、蜀を、民を、救ってください!」
劉備将軍の視線が、地図に吸い寄せられた。
私は、初めて口を開いた。
「将軍。……『仁義』とは、一人の兄弟を立てることではありません。……数百万の民を地獄から引き上げることこそが、真の仁義。……張松殿が命を懸けて届けたこの叫びを、無視なさるのですか」
劉備将軍は、地図の上に手を置いた。その手が、わずかに震えている。
「……わかった。……曹操に呑まれる前に、私が蜀へ赴こう。……孔明殿、準備を。……ただし、成都へは行かぬ。まずは国境の葭萌関に留まり、私が真に民を救える男かどうか、天に問うことにする」
私は、月明かりの下で、静かに羽扇を揺らした。
将軍の「徳」という名の檻に、私は「民の救済」という名の大義を差し込み、その扉を開けさせた。
成都へ向かうのではない。
蜀という巨大な大地を、その「心」から手繰り寄せるための、長い、長い遠征が今、始まったのだ。
「子龍殿。……全軍に伝えなさい。……我らはこれより、西の山脈を越える」
孔明の瞳には、すでに蜀の険しき山々を越え、新たな国家を築くための「秩序」の青写真が描かれていた。
荊州の秋は終わり、時代は、峻険なる蜀の冬へと足を踏み入れた。




