第七十話:蜀科(しょくか)の誕生、内政の鬼
第七十話:蜀科の誕生、内政の鬼
執筆:町田 由美
西暦214年、夏。
ついに成都の城門が開かれた。
劉備将軍が益州の主となり、街は戦の終わりを祝う歓喜に沸いていた。だが、その華やかな祝宴の最中、私は城内の一角にある、薄暗い執務室に籠もっていた。
「……密偵一号。益州の役人の私財、および税の徴収記録をすべて持ってきたか」
「は。……想像を絶する惨状にございます。前主・劉璋殿の甘い治世に乗じ、豪族たちは民から法外な税を搾り取り、蔵には金銀が溢れております。一方で、路地裏には餓死者が溢れ、法はただの紙切れと化しております」
私は、積み上げられた膨大な資料の山を、無言で、しかし恐ろしい速度で捲り始めた。
三十三歳。
孔明の瞳からは、かつての瑞々しさは消え、代わりにあらゆる不正を逃さない「法執行者」の冷徹な光が宿っていた。
「……法が死ねば、国が死ぬ。……まずはこの腐った肉を、根元から切り取らねばならない」
私は筆を執り、後に「蜀科」と呼ばれる過酷なまでの法典を書き始めた。
『一、賄賂を受け取った官吏は、その額の多少を問わず、即座に職を解き、全財産を没収する』
『一、民の訴えを三日以上放置した役人は、棒叩きの刑に処す』
『一、軍事物資を横流しした者は、一族郎党、極刑とする』
「軍師、これでは厳しすぎます!」
法正殿ら益州の旧臣たちが、私の部屋に雪崩れ込んできた。
「民は前主の慈悲に慣れております。このような厳しい法を敷けば、人心は離れ、反乱が起きますぞ!」
私は筆を置かず、彼らを一瞥もしなかった。
「……慈悲とは、悪を野放しにすることではありません。……法を厳しくするのは、真に善良な民を守るためです。……不平を言うのは、法によって利益を奪われる一部の強欲な者たちだけだ。……私は、彼らに嫌われるために、この成都に来たのです」
その日から、私は「内政の鬼」となった。
昨日まで贅沢を尽くしていた高官たちが、次々と鎖に繋がれ、広場で罪状を読み上げられる。民は最初、その厳しさに怯えた。だが、数ヶ月が経ち、役人が賄賂を要求しなくなり、不当な労働が消え、市場に公平な秤が戻った時、民の悲鳴は「驚き」へと、そして「感謝」へと変わっていった。
(……月英殿。……私は今、人々の恨みを一身に集めています。……ですが、この『法』という盾がなければ、彼らは再び戦火と貧困に飲み込まれてしまう)
月英殿は、私の背後に立ち、静かに肩に手を置いた。
「……孔明。あなたの筆先から流れるのは、墨ではなく、この国の『血』そのものね。……でも、あなたが鬼になるなら、私はその鬼が使うための、最も鋭い『鋤』と『鍬』を作りましょう」
孔明は、月英の温もりを感じながら、再び法典の執筆に戻った。
彼はついに、三國の中で最も貧しく、最も混乱していた蜀を、最も規律正しく、最も豊かな「楽園」へと変える礎を築き上げた。
だが、その秩序の完成は、次なる戦いへの序曲に過ぎない。
「内政」という名の牙を研ぎ終えた孔明の視線は、今、遥か北――曹操の眠る「中原」へと向けられていた。




