第六十九話:鳳雛(ほうすう)の飛来、西への道標
第六十九話:鳳雛の飛来、西への道標
執筆:町田 由美
周瑜殿を弔い、呉の軍営を後にした私の小舟。その舳先に、いつの間にか見知らぬ男が座っていた。
ぼろぼろの衣を纏い、酒瓶を抱え、その風貌は賢者というよりは浮浪者に近い。だが、その濁った瞳の奥にある、世界を鳥瞰するような鋭い輝きを、私は見逃さなかった。
「……見事な泣きっぷりであったな、諸葛孔明。周公瑾も、あの世で苦笑いしておるぞ。己の死さえも、貴殿の盤面の一手に使われたとなればな」
男は酒を煽り、下品に笑った。
「……龐統(士元)殿ですね。呉ではその容姿と毒舌ゆえに、居場所がありませんでしたか」
龐統。字は士元。私と並び「伏龍・鳳雛」と称された男。
彼は私の隣にどっかと座り込み、西の空を指差した。
「孔明よ。貴殿はいつまで荊州という『四戦の地』で足踏みをするつもりだ。ここは呉と魏に挟まれた、風通しの良すぎる庭に過ぎぬ。……真の王業を成すなら、西の益州(蜀)を奪え。あそこには険しき山があり、豊かな平原がある。……劉備という『徳』の器を、あそこに収めるのだ」
私は、羽扇を静かに畳んだ。
「……益州の主・劉璋殿は、我が主・劉備将軍の同族。……大義なき簒奪は、将軍の『徳』を汚します」
「ふん、相変わらず綺麗事を。……ならば、その泥仕事を私が引き受けよう。……貴殿は『光』の軍師として荊州を守れ。私は『闇』の軍師として、劉備を地獄の門へと突き落としてやる」
彼は、龐統という鏡の中に、自分の中にある「非情」を見出した。
荊州の本営に戻ると、私は劉備将軍の前に、龐統を連れて向かった。
「将軍。……『天下三分の計』を完遂する時が来ました。……これより、益州へ入り、西の盾を築くのです」
劉備将軍は、戸惑いを見せた。
「しかし孔明殿、劉璋殿は親族だ。その土地を奪うなど、人として……」
「……将軍」
私は、将軍の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……あなたが手を汚さぬというなら、私が、そしてこの龐統が、その罪をすべて背負いましょう。……あなたが夢見る太平の世は、一人の親族の涙の先にしか存在しないのです」
私は、密偵一号を呼び寄せ、すでに手配していた「益州内部の腐敗状況」と「内通者の名簿」を差し出した。
(……月英殿。……私はまた、一つの巨大な罪を犯そうとしています。……友を葬り、今度は親族を裏切る。……それが、この『三十歳』の私に課せられた、軍師という名の呪いなのです)
孔明は、内政の資料を整理する指先を、わずかに震わせた。
だが、その震えは、すぐに冷徹な「法の執行者」としての硬さに変わる。
鳳雛・龐統が先陣を切り、伏龍・孔明が後方を固める。
劉備軍の二大天才が、ついに西の峻険な山々へと、その侵略の一歩を踏み出そうとしていた。
「……ゆきましょう、士元殿。……どちらが先に、地獄の底へ辿り着くか、競うことにしましょうか」
孔明の呟きは、長江の波音にかき消された。




