第六十七話:巨星墜つ、巴丘(はきゅう)の絶筆
第六十七話:巨星墜つ、巴丘の絶筆
執筆:町田 由美
西暦210年。冬。
巴丘の軍営に、慟哭の声が満ちた。
「……天はこの世に周瑜を生みながら……なぜ、諸葛亮をも生んだのか……!」
その言葉を最期に、呉の都督・周瑜は、三十六歳の若さで息を引き取った。
枕元には、主君・孫権に宛てた、血の滲むような遺言が残されていた。そこには、孔明という怪物を警戒し、呉の安泰を願う、一人の愛国者としての魂の叫びが刻まれていた。
その訃報が荊州に届いた時、私は本営の庭で、一人、枯れ葉を焼いていた。
「……逝かれましたか、公瑾殿」
火の中に、赤壁の夜を共にした、あの男の端正な横顔が浮かんで消えた。
「軍師、行かせてはなりませぬ!」
張飛殿が、私の肩を掴んで怒鳴った。
「今、呉に行けば、奴らは都督の仇とばかりに、軍師の首を撥ねるに決まっておる! 奴らの怒りは、今や火山の如しだぞ!」
趙雲殿も、珍しく険しい顔で首を振った。
「軍師。子龍が同行したとしても、数万の呉軍の中では、あなたの命は保証できませぬ。……あえて、死地に赴く必要はございますまい」
私は、二人を見ずに、火の粉が舞う空を見上げた。
「……いいえ。行かねばなりません。……公瑾殿を死に追いやったのが私であるなら、その魂を鎮めることができるのも、また、私だけなのです」
私は知っていた。
もしここで私が沈黙を守れば、呉と劉備軍の同盟は完全に壊れ、曹操がその隙を突いて南下するだろう。
私が呉の陣営で「涙」を流すこと。それは、周瑜という男への敬意であると同時に、呉の将兵の怒りを『哀惜』へと反転させ、同盟を繋ぎ止めるための、命懸けの「外交」なのだ。
私は、月英殿に頼んで用意してもらった「最も上質な香」と、一巻の祭文を抱え、小舟に乗った。
「……月英殿。……私は、自分の嘘を真実にするために、今日、初めて自分の心を殺します。……あるいは、心さえも、公瑾殿への供物として捧げてきましょう」
船が呉の軍営の港に入る。
そこには、白装束に身を包み、憎悪に満ちた眼差しで私を待つ、数千の呉の将兵たちがいた。
彼らの手は、腰の剣にかけられている。私が一言、無礼な言葉を吐けば、瞬時に私は細切れにされるだろう。
私は、ゆっくりと桟橋を歩いた。
一歩、また一歩。
彼の背中には、死を恐れる気配など微塵もなかった。
あるのは、唯一無二のライバルを失った男の、深淵のような「喪失感」だけだった。
(……公瑾殿。……見ていなさい。……あなたの葬儀を、私がこの世で最も美しく、そして最も残酷な『和睦の場』に変えてみせる)
祭壇の前、周瑜の棺が置かれたその中心で、私は深く、深く頭を下げた。
「……嗚呼、公瑾殿……!」
私の唇から漏れたその声は、演技か、真実か。




