第六十六話:追走の果て、断たれた矜持
第六十六話:追走の果て、断たれた矜持
執筆:町田 由美
長江の岸辺、江口。
呉の追撃軍が、砂煙を上げて迫っていた。
劉備将軍と孫夫人、そして趙雲(子龍)を乗せた馬車が、ぬかるんだ土に車輪を取られながら、必死の逃走を続けていた。
「――逃がすな! 劉備を捕らえ、都督(周瑜)のもとへ引き立てよ!」
呉の将・徐盛と丁奉が率いる精鋭たちが、あと数町(数百メートル)というところまで肉薄する。だが、その行く手を阻んだのは、霧の中から現れた、旗一本ない不気味な小舟の群れだった。
その中央に、私は立っていた。
三十歳。
かつて隆中の山にいた頃の、風を友としていた青年ではない。
今、私の瞳に映っているのは、友であったはずの周瑜殿を、社会的に、そして精神的に「抹殺」するための、冷徹な詰み盤である。
「……子龍殿、よくぞ将軍をお守りした。……あとは、私に任せなさい」
私は羽扇を上げ、あらかじめ対岸の茂みに伏せさせていた数千の兵たちに合図を送った。
「皆で、声を揃えて叫びなさい。……周将軍への、心のこもった『弔辞』を」
次の瞬間、江口の岸壁から、地鳴りのような合唱が湧き上がった。
『周郎の妙計、天下を安んじ、二の舞を演じて……将軍を送り、また兵を失う!』
(周郎の妙計、天下を定め、夫人を失い、また兵を折る!)
それは、周瑜が仕掛けた「美人計」を揶揄する、最も卑劣で、最も効果的な罵声の礫であった。数千人の声が重なり、長江の波音さえもかき消していく。
「……な、なんだ、あの声は……!」
追撃軍の後方、戦車の上で指揮を執っていた周瑜殿が、わななきながら立ち上がった。
彼の耳に、孔明が仕掛けたその「言葉の毒」が、直接脳髄を焼くように響き渡る。
自分が心血を注いだ計略が、孔明の手のひらで踊らされた挙句、天下の笑いものにされている。……その事実に、周瑜の自尊心は粉々に砕け散った。
「……おのれ……おのれ、諸葛亮……ッ!!」
周瑜の口から、赤壁の火よりも熱く、赤い血が、激しく噴き出した。
傷口は塞がっていなかったのではない。
私の「理」が、彼の魂の傷口を、無理やり抉り開けたのだ。
「……周将軍。……あなたは、私を殺すべきだった。……だが、あなたは私という存在に『勝ちたい』と願ってしまった。……その執着こそが、あなたの寿命を縮めたのです」
私は、血を吐いて倒れ込む周瑜の姿を、遠く霧の向こうに幻視しながら、静かに船の進路を荊州へと向けた。
劉備将軍は、私の手を取り、震える声で言った。
「……孔明殿。これで、呉との同盟は終わりか」
「……いいえ、将軍。……周瑜殿が死ねば、呉の『怒り』は行き場を失います。……その後に来るのは、真の恐怖。……私はこれから、周瑜殿の葬儀に赴き、その怒りを、我らへの『畏怖』へと変えてみせましょう」
彼は、自らの手でライバルを死の淵へと追いやりながら、その魂を送るための「最も美しい言葉」を、頭の中で編み始めていた。
(……公瑾殿。……もうすぐ、あなたに会いに行きます。……私という地獄を、最後まで見届けていただくために)




