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『諸葛孔明 星辰の理(ことわり)』  作者: velvetcondor guild


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第六十五話:忘却の宮(きゅう)、月英のからくり

第六十五話:忘却のきゅう、月英のからくり


執筆:町田 由美


 呉の宮廷、南徐なんじょ

 そこは、長坂坡の泥濘も、赤壁の焦熱も届かぬ、人工の極楽であった。

 劉備将軍は、若く美しい孫夫人の傍らで、毎日繰り返される宴の主役となっていた。かつての「むしろ売り」の面影は、呉の最高級の絹に覆い隠され、その手から剣を握るタコが消えようとしていた。

 「……子龍、もうよいではないか。荊州は孔明が守っておる。私はここで、ようやく安らぎを得たのだ」

 酒杯を傾ける主君の姿に、趙雲(子龍)は唇を噛み締めていた。

 これこそが、周瑜(公瑾)殿が仕掛けた「英雄殺し」の計。軍勢で勝てぬなら、その志を、安逸という名の真綿で絞め殺す。病床にある周瑜殿は、遠く南郡の地で、劉備が堕落していく報告を聞き、ようやく血の混じった笑みを浮かべていたという。

 だが、その安逸の壁を、一通の「届け物」が突き破った。

 「……軍師殿から、子龍殿へ」

 闇夜に現れた密偵三号が手渡したのは、一つの小さな木箱であった。

 中には、月英殿が隆中の工房で試作し、孔明が調整を加えた「木製の絡繰からくり時計」が入っていた。それは一定の時が来ると、内部の歯車が噛み合い、ある「音」を奏でる仕組みになっていた。

 趙雲がそれを劉備の寝室に忍ばせたその夜。

 深夜の静寂の中に、突如として響き渡ったのは、優雅な音楽ではなかった。

 ――ドォォォォン!!

 それは、長坂坡で張飛が橋を落とした時の、あの腹の底に響く轟音。

 そして、赤壁で船が爆ぜる、あの絶望と歓喜の混じった火の音。

 月英が作り上げた反響版が、劉備がかつて戦場を駆けた際の「記憶の音」を、増幅して再現したのだ。

 「……な、なんだ!? 敵襲か!?」

 飛び起きた劉備は、無意識に枕元の剣を探した。だが、そこにあるのは冷たい剣ではなく、温かな絹の布団だけだった。

 劉備は、己の震える手を見つめた。

 

 「……私は、何をしていた。……雲長や翼徳が、泥を啜って荊州を守っているというのに、私は……」

 その時、趙雲が三番目の錦の袋を開き、中に記された孔明の最後の一筆を差し出した。

 ――『将軍。荊州は今、曹操の十万の軍に囲まれ、陥落の危機にあります。帰らねば、すべてを失うでしょう。……嘘を真実に変えるのは、あなたの志、ただ一点のみです』。

 「……孔明殿! おのれ、私を騙したな……いや、私を救ったのか!」

 劉備の瞳に、再び「英雄の火」が灯った。

 

 一方、荊州の本営。

 私は、月英殿が調整したもう一つの絡繰時計が、カチリと音を立てて止まるのを見た。

 「……月英殿。音は届いたようです」

 「……ええ、孔明。でも、これで周瑜殿は、ご自分の知略が『家族の絆』と『戦友の音』に負けたことを知るわ。……彼、耐えられるかしら」

 私は答えなかった。

 周瑜殿。あなたは「英雄」を欲で縛ろうとした。だが、英雄を動かすのは、いつだって「失うことへの恐怖」と「背負うべき重責」なのだ。

 

 

 彼は、主君を救い出すために、一つの巨大な「嘘」を荊州にでっち上げた。

 劉備が呉を脱出する。

 それは、周瑜にとって、残されたわずかな生命の糸を、孔明が直接手繰り寄せ、断ち切るための非情な合図であった。

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