第六十四話:甘露寺の火花、二番目の封印
第六十四話:甘露寺の火花、二番目の封印
執筆:町田 由美
呉の古刹、甘露寺。
そこは、華やかな婚儀の場であると同時に、床下には周瑜が密かに配した五百の伏兵が潜む、死の罠でもあった。
劉備将軍は、呉の国母(呉国太)の前に、背筋を伸ばして座していた。その隣で、趙雲(子龍)は影のように付き従い、左手は常に、孔明から授かった「二番目の錦の袋」に触れていた。
「……ほう、劉備殿。噂に違わぬ、徳の高さよ。私の娘を預けるに、不足はない」
国母の言葉に、孫権は脂汗を流し、背後の屏風の向こうでは、合図を待つ刺客たちが息を潜めていた。
その時、趙雲が袋を破り、中に記された孔明の「理」を読み取った。
――『伏兵を見つけなば、あえて騒がず、国母の情けを盾に、周瑜の不忠を暴け』。
趙雲は不敵に微笑み、一歩前に出ると、あえて大きな声で剣をガチャリと鳴らした。
「――国母様! この甘露寺、あまりに殺気が満ちております。……もしや、周都督は、あなたが選んだこの婿を、この場で惨殺するつもりではございませぬか!」
「何だと!?」
国母が立ち上がる。趙雲は即座に廊下のカーテンを切り裂いた。そこには、刀を抜いたまま硬直した呉の兵たちが群れていた。
「……権よ! 周公瑾よ!! 私が娘を嫁がせんとするその足下で、何という不祥事を起こすのか! この兵たちを今すぐ下げねば、私がこの場で喉を突いて死んで見せよう!」
国母の激怒に、孫権は平伏した。周瑜が丹念に築き上げた「暗殺の網」が、孔明が予見した「老母の情」という、たった一つの情緒の暴力によって、音を立てて崩壊した瞬間であった。
一方、荊州の本営。
私は、月英殿が煎じてくれた茶を飲みながら、長江の向こうから届く「情報の震え」を感じ取っていた。
「……軍師。子龍殿から報告が。……甘露寺での暗殺は阻止され、劉備将軍は正式に孫権様の義弟として認められました」
密偵一号の報告に、私は短く頷いた。だが、私の瞳に喜びはない。
「……周瑜殿。……これで、あなたの『誇り』はズタズタになった。……だが、あなたは止まらない。……いや、止まれないのだ。……次にあなたは、劉備将軍を豪華な宮殿と美女の中に溺れさせ、その志を腐らせるという『毒の檻』を仕掛けるでしょう」
私は、三番目の袋を指先で弄んだ。
それは、劉備将軍を荊州へ連れ戻すための道標ではない。
周瑜という男の、軍師としての「命」を、完全に断ち切るための非情な刃なのだ。
「……月英殿。……私は、自分の手が冷たくなっていくのを感じます。……彼(周瑜)は、私と同じ空の下に生きる、唯一の鏡。……その鏡を、私は自らの手で割らねばならない」
彼は、自らの勝利が「友」の死に直結することを予感し、深い夜の淵で、独り、羽扇を揺らしていた。
赤壁で共に戦った記憶が、遠い過去のように霞んでいく。
そこにあるのは、互いの脳髄を喰らい合う、凄絶な知の共食いであった。




