第六十三話:国母降臨、破られた秘策
第六十三話:国母降臨、破られた秘策
執筆:町田 由美
呉の都、京口。その港に降り立った劉備将軍と趙雲(子龍)を待っていたのは、歓迎の宴ではなく、物陰に潜む呉の兵たちの、氷のような殺気であった。
「……子龍、やはり我らは虎の口に飛び込んだのではないか」
不安に震える劉備将軍の横で、趙雲は無言で鎧の内側に手を差し入れた。そこには、軍師・孔明から授かった「一番目の錦の袋」がある。
孔明の指示は明確だった。――『呉の土を踏まば、即座にこれを開き、市井に黄金を撒き、劉備将軍の婚儀を全土に知らしめよ』。
趙雲が袋を開き、中に記された密書を読み終えた瞬間、彼の瞳に迷いは消えた。
「――全兵に告ぐ! 惜しみなく黄金を振る舞い、呉の民に叫べ! 『天下の英雄、劉備将軍が、呉の姫君を娶るために来られた! これは両国の永遠の平和の証である!』とな!」
その声は、町中の喧騒を突き抜けた。孔明が放っていた密偵たちが、瞬時にこれに呼応する。数時間もしないうちに、京口の町は「劉備と姫君の結婚」を祝う熱狂に包まれた。
その知らせは、呉の最高実力者・孫権の母である「呉国太」の耳にも届く。
「……権よ、これはどういうことか! 私の娘を嫁に出すというのに、なぜ母親である私に一言の相談もないのだ!」
甘露寺の奥、国母の怒声が響き渡った。
孫権は蒼白になった。この婚儀は、周瑜と練り上げた「劉備を誘い出して殺す」ための偽計。当然、母親に話せるはずもない。しかし、孔明が流した「噂」と趙雲が撒いた「事実」により、もはや隠し通すことは不可能となった。
「……周公瑾め。……奴の策は、あの諸葛孔明に、すべて裏から糸を引かれている!」
孫権が机を叩いたその時、周瑜は南郡の病床でこの報告を受け、再び激しい吐血に見舞われていた。
(……諸葛亮……! 貴様、私の『死の罠』を、『真実の縁談』にすり替えたというのか!)
周瑜の狙いは、劉備を軟禁し、荊州と交換することだった。しかし、国母が「娘婿」として劉備に会うと宣言した以上、不用意に劉備を傷つければ、それは呉の王室の恥となる。
一方、荊州の本営。
私は、窓の外を流れる長江を見つめながら、静かに二番目の袋を用意していた。
「……子龍殿。国母との対面、これこそが最大の難関。……ですが、案ずることはありません。……呉の朝廷を動かしているのは、孫権の剣ではなく、国母の慈愛と、人々の『名誉を重んじる心』なのです」
彼は千里の彼方から、一通の文と黄金だけで、呉の最強の軍師・周瑜の手足を縛り上げた。
情報の力は、時に百万の軍勢をも凌駕する。
「さあ、周将軍。……次は何を繰り出しますか。……あなたの『怒り』が、私の次なる『理』を加速させるのですよ」
孔明の瞳には、一切の迷いがない。
彼は知っていた。この婚儀が、劉備を呉に留めるための「繭」に変わることを。そして自分が、その繭を切り裂くための「二番目の刃」を、すでに趙雲の懐に忍ばせていることを。




