第六十二話:錦の袋、呉への再征
第六十二話:錦の袋、呉への再征
執筆:町田 由美
南郡の城壁に、劉備軍の旗が冷たい風に煽られてはためいている。
だが、その勝利の味は、呉から届いた一通の書状によって、一瞬にして鉄の味へと変わった。
「――我が主、孫権の妹を、劉備将軍の妻として迎えたい。ついては、将軍自ら呉の京口までお越し願いたい」
使者の言葉に、本営は騒然となった。誰の目にも明らかな「罠」である。劉備将軍を人質に取り、荊州を返還させるための、周瑜(公瑾)殿が吐血しながら絞り出した執念の策であった。
私は、震える劉備将軍の傍らで、静かに三つの小さな「錦の袋」を机の上に置いた。
紅、黄、青。
それぞれに、私が密偵を通じて得た「呉の弱点」と「人の心の隙間」を突くための、三段階の理が封じ込められている。
「……子龍殿。この袋を、あなたの鎧の内側に、肌身離さず持っていなさい」
私は、護衛に指名した趙雲(子龍)の瞳を覗き込んだ。彼の誠実な瞳の中に、死を覚悟した武人の火が灯る。
「一番目の袋は、呉の土を踏んだ瞬間に開きなさい。二番目は、窮地に陥った時に。そして三番目は……あなたが『もはやこれまで』と天を仰いだその時に」
「……軍師。あなたは、行かれないのですか」
「……ええ。私が行けば、周瑜殿は即座に軍を動かすでしょう。私という『毒』がここに残ることで、彼は劉備将軍をすぐには殺せない。……私はここで、情報の網を絞り、呉の朝廷を内側から揺さぶります」
劉備将軍を乗せた船が、朝靄の長江へと滑り出していく。
私は岸辺に立ち、その背中を見送った。
(……将軍。あなたは『徳』を武器に、呉の姫君の心を奪いなさい。子龍殿、あなたは『誠』を武器に、呉の刃を跳ね返しなさい。……そして私は、『法』を武器に、孫権という若き獅子の手足を縛り上げましょう)
私は、密偵一号を呼び寄せた。
「……呉の国母(孫権の母)のもとへ、工作員を放ちなさい。……『劉備は天下の名士であり、その婚儀を秘密裏に行うのは、姫君への辱めである』と、町中に噂を流すのです。……周瑜殿が隠しておきたいこの罠を、私は呉の民全員が祝福する『華やかな祝言』へと書き換えてみせる」
彼は荊州を動かずして、遠く離れた呉の宮廷を操り始めた。
情報の塵が舞い、噂が真実を喰らい尽くしていく。
周瑜が用意した「死の宴」は、孔明の手によって、引き返すことのできない「国家の慶事」へと変貌していく。
「……美周郎。……あなたの計算には、常に『情』という不確定要素が欠けている。……人は理だけで動くのではない。……面目と、誇りと、そして『世評』という名の鎖に縛られているのだということを、教えて差し上げましょう」
夜の長江に、孔明の羽扇が静かに一閃した。
それは、目に見えぬ「情報の刃」が、呉の喉元を切り裂いた音であった。




