第六十一話:漁夫の利、情報の簒奪(さんだつ)
第六十一話:漁夫の利、情報の簒奪
執筆:町田 由美
赤壁の残り火がようやく灰になった頃、荊州の南郡を巡る戦いは、地獄の様相を呈していた。
呉の都督・周瑜(公瑾)殿は、曹操が残した名将・曹仁を相手に、猛烈な攻城戦を仕掛けていた。連日、長江の北岸には鬨の声が響き、呉の精鋭たちが次々と城壁の露と消えていく。
私は、その喧騒から数十里離れた、静かな廃寺に仮本営を置いていた。
目の前には、密偵たちが持ち帰った荊州各城の「印章」の写しと、守備兵の配置図が並んでいる。
「……密偵一号。周瑜殿の様子は」
「……は。都督は曹仁の放った毒矢に左脇を射抜かれ、深傷を負われました。ですが、それを逆手に取り、『己の死』を偽装して曹仁を城外へ誘い出すという、乾坤一擲の策を講じております。……今まさに、曹仁の主力は周瑜殿の罠に飛び込もうとしております」
私は羽扇で卓上の地図を叩いた。
「……周将軍。あなたの知略は相変わらず見事だ。……だが、あなたが『死』を演じて敵を誘い出している間に、その空っぽになった城を、私が『生きたまま』頂くことにしましょう」
私は背後に控える趙雲(子龍)殿に視線を送った。
「子龍殿。……曹仁が周瑜殿の軍勢に包囲され、城が手薄になったその刹那に、曹操軍の『偽の伝令』として南郡に入りなさい。……合言葉は昨日、密偵が奪い取ったものを使えば、門は開きます」
「……承知いたしました。……軍師。周瑜殿がこれを知れば、今度こそ、その傷口が開いて死に果てるかもしれませんが……」
「……それもまた、理です」
私は冷たく言い放った。
数時間後。
周瑜殿は、自らの血を流し、名将・曹仁を敗走させることに成功した。
満身創痍の体を引きずり、勝利の確信を持って南郡の城門へと辿り着いた周瑜殿が見たのは――呉の旗ではなく、冬の朝焼けに堂々とたなびく、「劉」の字が記された我が軍の旗であった。
「……な、何だと……。なぜ、ここに劉備の兵がいる……!?」
城壁の上に立つ趙雲殿が、静かに一礼する。
「――都督。南郡は、我が軍師・諸葛孔明の命により、すでに我が主・劉備が治めております。ご足労、痛み入ります」
その報告が周瑜殿に届いた瞬間、彼の口からは鮮血が噴き出したという。
密偵たちがもたらしたその「戦果」を聞きながら、私は成都の方角、まだ見ぬ西の空を見つめていた。
「……周将軍。恨まないでいただきたい。……我らには、帰る場所がないのです。……あなたが名誉を求める間に、私は主君に『国』を捧げねばならない」
彼は血を一滴も流さず、情報の糸を操るだけで、呉が数万の犠牲を払って得ようとした荊州の心臓部を奪い取った。
それは、同盟という名の皮を剥ぎ取り、剥き出しの「国家の利害」を突きつける、非情なる新章の幕開けであった。
荊州奪取。
「天下三分の計」の第一歩は、盟友の心臓を抉るような、冷徹な裏切りによって刻まれた。




