第六十話:赤壁の残火、静かなる涙
第六十話:赤壁の残火、静かなる涙
執筆:町田 由美
赤壁の夜が明けた。
かつて長江を埋め尽くした曹操の「連環の艦隊」は、今や黒く焦げた無数の残骸となり、波間に漂っている。東風は止み、代わりに冬の冷たい霧が、数万の兵たちの断末魔を包み隠すように立ち込めていた。
私は、勝利の宴が続く本営を離れ、独り、岸辺に降り立った。
「……理の通りですね、月英殿」
私は、懐から煤けた数珠を取り出し、それを握り締めた。
足元の泥濘には、波に打ち寄せられた魏兵の亡骸が、幾重にも重なっている。彼らにも故郷があり、待つ家族がいたはずだ。私の呼び込んだ「風」と、私が周瑜殿に授けた「火」が、彼らの一生を一瞬にして炭へと変えた。
博望坡で初めて火を放った時、私は震えた。
新野で民が焼かれた時、私は絶望した。
そして今、この圧倒的な勝利の果てに、私の心にあるのは、空虚という名の巨大な深淵だった。
(……私は、何人を殺したのでしょう。……平和という名の理想のために、どれほどの血で、この羽扇を濡らせば済むというのですか)
私は、誰もいない霧の中で、ゆっくりと膝をついた。
白い衣が泥に汚れ、冷たい水が膝を浸す。
感情を殺し、法を説き、冷徹な仮面を被り続けてきた二十七歳の青年は、そこで初めて、声もなく涙を流した。
その涙は、誰のためでもない。
失われた命のため、そして、これからも奪い続けなければならない自分自身の魂のための、葬送の儀式であった。
「……軍師殿」
背後で、静かな足音がした。振り返らなくてもわかる。趙雲(子龍)だ。彼は、主君の軍師が独り、この地獄の跡で何を求めているのかを悟り、あえて距離を置いて立ち尽くしていた。
「……子龍殿。……私は、恐ろしい男ですね。……これほどの死を積み上げておきながら、頭の中ではすでに、次なる『荊州奪取』の計算を止めることができない」
「……軍師。……あなたは、彼らの死を背負うと決められたはずだ。……ならば、その計算こそが、死んでいった者たちへの唯一の供養でありましょう。……中途半端な同情こそが、最も彼らを辱める」
趙雲の言葉は、冷たく、しかし優しかった。
私は、泥に汚れた手で涙を拭い、立ち上がった。
目の前の霧が晴れ、遠くに呉の艦隊が「南郡」を目指して動いているのが見えた。周瑜殿はすでに、勝利の美酒を捨て、次の領土へと牙を向けている。
「……ええ。……泣くのは、今日で終わりにしましょう」
私は羽扇を広げ、再び軍師の顔に戻った。
「子龍殿。……呉の周瑜殿に、華々しく戦ってもらいましょう。……彼は曹操の残党と血みどろの戦いを繰り広げ、勝ったつもりでいるはずだ。……だが、その果実を最後に手にするのは、我ら劉備軍だ」
彼は、赤壁の炎で自らの「甘さ」を焼き尽くした。
静かな涙は乾き、その跡には、天下を三つに引き裂くための、冷酷で完璧な「理」だけが残った。
赤壁の勝利は、平和への一歩ではない。
それは、さらなる巨大な「三國の泥沼」へと続く、血塗られた扉が開いた瞬間に過ぎなかった。




