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『諸葛孔明 星辰の理(ことわり)』  作者: velvetcondor guild


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第五十九話:華容道の雪、義の断罪

第五十九話:華容道の雪、義の断罪


執筆:町田 由美


 夏口の夜は、底冷えがした。

 幕舎の外では、帰還した張飛と趙雲の勝鬨かちどきが上がっているが、私の机の上に置かれた「軍令状」だけは、冷たい殺気を放っていた。

 「……報告は、間違いありませんか」

 私は、闇から戻った密偵一号に、低く、押し殺した声で尋ねた。

 「……は。関雲長殿、華容道の険しき道にて曹操を包囲。……曹操は馬を下り、かつての五関突破の恩を説き、涙ながらに命乞いをいたしました。……雲長殿、長刀を収め、道を空け……曹操を北へ逃がされました」

 私は羽扇うせんを握り締めた。指先が白くなるほどに。

 ことわりは、すべて私の計算通りだ。曹操がここで死ねば、呉の周瑜が即座に北上し、天下は二分され、劉備将軍に居場所はなくなる。曹操は生かして帰さねばならなかった。……しかし、「法」は、それを許してはならないのだ。

 「……関羽を、ここへ。……そして劉備将軍もお呼びしなさい」

 ほどなくして、幕舎の垂れ幕が上がり、堂々たる体躯の男が入ってきた。関羽、字は雲長。その髭には氷の粒がつき、青龍刀には敵の血が凍りついていた。彼は私を直視せず、主君・劉備の前で静かに膝をついた。

 「……雲長殿。曹操の首は、いかがされましたか」

 私の問いは、氷の刃となって幕舎を切り裂いた。劉備将軍が、不安げに私の顔を覗き込む。

 「……首はない。曹操、あまりに無様ぶざまにつき、……討つに忍びず、放してやった」

 「――何だと!!」

 劉備将軍が声を上げる。しかし、私は立ち上がり、あらかじめ用意していた「軍令状」を関羽の足元に叩きつけた。

 「関雲長! 出陣の際、貴殿は『曹操を逃がせば、この首を差し出す』と誓い、この軍令状に署名したはずだ! ……法は情に優先する。……左右の者! この男を引き立て、直ちに首を刎ねよ!」

 「待て! 孔明殿、待ってくれ!」

 劉備将軍が私の袖を掴む。だが、私はその手を振り払った。

 「将軍! 私がこの軍を預かった時、最初に誓ったのは『法を正す』ことです。……たとえあなたの兄弟であろうとも、軍令を破った者を許せば、この先、誰が私の言葉に従いましょうか!」

 私は関羽を睨みつけた。

 彼の瞳の中に、申し訳なさではなく、自らの「義」を貫いたことへの清々しい覚悟が見えた。その覚悟が、私には何よりも眩しく、そして憎かった。

 

 (……雲長殿。……あなたは『義』という名の光を選んだ。……ならば、私は『法』という名の闇を背負いましょう。……あなたを救うための『芝居』さえも、私は軍師の冷徹として演じきってみせる)

 「……斬れ! 早く斬らぬか!!」

 私の怒声が響く中、張飛が、趙雲が、次々と跪き、「我らの首も共に刎ねよ!」と泣き崩れる。劉備将軍は床に頭を擦り付け、私に懇願した。

 すべては、私の描いた通りの「幕引き」へと向かっていく。

 「……そこまで仰るなら、将軍の顔に免じ、この首、一旦預けましょう。……ですが雲長殿。……あなたが今日逃がした曹操は、いずれ数万の民の命を奪うこととなる。……その罪を、あなたは一生、その重い刀と共に背負いなさい」

 関羽は、深く、深く頭を下げた。

 

 

 彼は、自らの「理」で曹操を逃がし、自らの「法」で関羽を追い詰め、そして自らの「知恵」で劉備軍の結束をより強固なものへと変えた。

 

 幕舎の外では、雪がすべてを白く塗り潰そうとしていた。

 赤壁の火が消えた後、孔明の胸に降り積もったのは、勝利の喜びではなく、人を救うために人を裁かねばならない「孤独」という名の冷たい雪であった。


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