第五十八話:情報の塵(ちり)、天下の火
第五十八話:情報の塵、天下の火
執筆:町田 由美
夏口の仮本営。
外では勝利に沸く兵たちの歓声が、地鳴りのように響いている。しかし、私の幕舎の中は、香炉から立ち上る一筋の煙と、次々に闇から現れる「影」たちが持ち帰る情報の冷気で満たされていた。
「……報告せよ」
私は羽扇を膝に置き、目を閉じたまま命じた。
「魏の戦果報告を。……密偵一号、申せ」
影が一人、音もなく跪く。
「……は。魏軍、赤壁にて全艦隊を喪失。烏林への敗走路において、我が軍の趙雲、張飛の両将軍による襲撃を受け、死傷者数万。曹操は現在、十数騎の供回りのみで華容道へ向かっております。……兵たちは馬の肉を喰らい、泥水を啜って生きながらえる惨状。魏の天下は、今、物理的に瓦解しております」
「よし。……密偵二号、呉の動向は」
別の影が、濡れた衣のまま現れる。
「……呉の周瑜、勝利に激昂し、休む間もなく南郡への進軍を開始。曹操の残党を一掃し、そのまま荊州全土を飲み込む構えです。……ですが、都督自身、乱戦の中で流れ矢を受け、左肩に負傷。……それでも彼は、軍師殿の首を獲り損ねたことに、凄まじい執念を燃やしております」
「……左肩か。……それもまた、理の範疇だ」
私はゆっくりと目を開いた。
魏は死に体。呉は狂気。
私が放った密偵たちは、単なる被害状況だけでなく、将軍たちの「心象」までも持ち帰っていた。曹操の「恐怖」、周瑜の「焦燥」。
「……密偵三号。荊州の民はどう動いている」
「……はい。曹操の略奪と、それに続く戦火に絶望しております。彼らは、長坂坡で自分たちを捨てなかった劉備将軍の旗印が、再びこの地に立つことを、祈るように待っております」
私は、彼らにそれぞれ一握りの金貨を渡し、再び闇へと返した。
報告された戦果は、完璧だった。
曹操は、再起不能に近い打撃を受けた。しかし、ここで彼を完全に殺してはならない。彼が北へ逃げ延びることで、呉の勢力拡大を牽制する「毒」として残さねばならないのだ。
(……月英殿。……私は今、天秤を操っています。……一歩間違えれば、私自身がこの血の海に沈む、極限の均衡を)
「……軍師殿」
不意に幕舎の入り口が開いた。そこに立っていたのは、一足先に帰還した趙雲(子龍)だった。
「……密偵たちの報告通りです。曹操は、華容道へと追い込みました。……あとは、雲長殿の決断次第です」
「……ええ。……雲長殿は、曹操を逃がすでしょう。……そして、その『軍法会議もの』の失態を、私が一身に背負う。……それが、劉備将軍の義を守り、かつ天下を三つに分ける、唯一の針穴なのです」
彼は、密偵が運んできた無数の「死」の情報を、冷徹に「生」の戦略へと編み直していた。
外の歓声は、彼には聞こえない。
彼が聞いているのは、泥を這う曹操の喘ぎ声と、次なる盤面――「荊州争奪戦」の幕開けを告げる、運命の足音だけであった。




