第五十七話:波間の飛箭(ひせん)
第五十七話:波間の飛箭
執筆:町田 由美
背後で赤壁の空が真っ赤に焼け落ち、曹操の艦隊が断末魔を上げている。だが、私の乗る小舟を追うのは、勝利の余韻ではなく、周瑜殿が放った冷徹な「抹殺」の意志であった。
「逃がすな! 諸葛亮の首を我が都督へ持ち帰るのだ!」
呉の将・徐盛と丁奉が率いる数隻の追撃船が、風に乗り、凄まじい速さで迫りくる。私の漕ぐ小舟は、波に揉まれ、今にもその牙に届きそうであった。私は羽扇を強く握りしめ、闇に沈む対岸の「ある一点」を凝視した。
「……理は、ここにある」
その時、前方の濃霧の中から、巨大な、しかし音のない影が滑り出してきた。
一艘の劉備軍の軍船。
その舳先に立ち、夜の闇よりも深く、月光よりも鋭い光を放つ男がいた。
「――軍師、お迎えに上がりました」
趙雲(子龍)だ。彼は、血に汚れた鎧を脱ぎ捨て、身軽な装束で長弓を構えていた。
呉の追撃船が射程に入る。徐盛が剣を抜き、「賊軍の軍師を渡せ!」と叫ぶ。趙雲は眉一つ動かさず、ただ静かに弦を引き絞った。
「……将軍。これより先は、我らが主君の領域。一歩踏み込めば、この矢が返答となる」
ひゅん、という、低く短い音が空気を裂いた。
趙雲が放った一矢は、荒れ狂う風を切り裂き、正確に徐盛の乗る船の「帆桁」を繋ぐ索を断ち切った。
バサァッ!!
巨大な帆が、主を失った翼のように力なく崩れ落ち、追撃船は一瞬にして推進力を失い、長江の濁流に翻弄される。
「な、なんだと……。あの揺れる船の上から、この暗闇で、一点を射抜いただと!?」
呆然とする呉の将たちを置き去りにし、私は趙雲の差し出した手を取り、軍船へと飛び移った。
彼の掌は、戦いの熱気を帯び、鉄のように硬かった。
「……助かりました、子龍殿」
「軍師。あなたが天に祈っている間、我らもまた、天があなたを見捨てぬよう、武器を研ぎ続けておりました」
船が北岸へと舵を切る。
背後では、周瑜の執念が炎となって赤壁を焼き尽くしているが、私たちの前には、未だ暗く、深い「次なる戦場」が広がっていた。
私は船室に入り、独り、窓から遠ざかる炎を見つめた。
(……これで、呉との『蜜月』は終わりました。……明日からは、周瑜殿は私を殺すべき敵として数えるでしょう。……そして曹操もまた、この火傷の痛みを忘れることはない)
彼は趙雲の守りの中で、ようやく震える指先を隠した。
「子龍殿。……次は烏林です。……敗走する曹操の前に、翼徳殿と雲長殿を配置しなさい。……ただし、雲長殿には、華容道を守らせるのです」
「……軍師、よろしいのですか。雲長殿は、かつて曹操に受けた恩があります。……逃がしてしまうかもしれません」
「……それでよいのです。……曹操をここで殺せば、呉が天下を飲み込む。……我らが生き残るためには、あの大賊にも、まだ『生きて』もらわねばならぬのです」
赤壁の勝利の瞬間に、孔明はすでに曹操の「命」を救う策を講じていた。
それは、誰にも理解されない、冷酷極まる「均衡」という名の知略であった。




