第五十六話:赤壁の焦熱
第五十六話:赤壁の焦熱
執筆:町田 由美
風は、私の理を超えて吹き荒れていた。
南東から吹きつける熱い風が、長江の波を逆立て、呉の軍船を曹操軍の巨大な艦隊へと押し進める。
「――全軍、抜剣! 目標は曹操の御座船なり!」
一番船の舳先に立ち、抜き放った長剣を天に掲げる男がいた。周瑜、字は公瑾。
彼の背後には、全身に包帯を巻き、執念だけで立ち上がった老将・黄蓋が率いる火船の群れが、炎の龍となって水面を這っていた。
「公瑾よ、見ておれ! 我が肉体を叩き割ったこの痛み、曹操に何万倍にして返してやる!」
黄蓋の咆哮と共に、火船が曹操の連環艦隊へと突き刺さった。
鎖で繋がれ、逃げ場を失った魏の巨船たちは、一瞬にして火だるまとなった。東風に煽られた火の手は、まるで生き物のように船から船へと飛び移り、夜空を昼間のように赤く染め上げていく。
「……美しいな。曹操、貴様が夢見た天下の終着駅が、この地獄の火の中だ」
周瑜の瞳には、燃え盛る炎が映っていた。その美しき相貌は、勝利の陶酔と、敵を蹂躙する非情な快感に歪んでいる。
彼は、自ら小舟に飛び乗り、混乱を極める曹操軍のまっただ中へと突っ込んだ。
「射よ! 一矢たりとも逃すな! 逃げ惑う北の鼠どもを、長江の魚の餌にしてやれ!」
周瑜の指揮は、一寸の乱れもなかった。
火に焼かれ、水に飛び込み、溺れ死んでいく魏の兵士たち。その絶叫を、彼は冷徹な旋律として聞きながら、次々と下される命令は、曹操の「退路」を正確に遮断していった。
「都督! 曹操の旗艦が北岸へと逃れます!」
「追え! 甘寧、太史慈! 奴の首を獲るまで、呉の旗を下ろすことは許さぬ!」
周瑜の怒号が、爆ぜる火の音を圧倒する。
彼は知っていた。この勝利は、あの「諸葛孔明」が呼んだ風がもたらしたものだということを。だからこそ、彼は己の武勇と、この圧倒的な破壊の光景をもって、孔明という影を塗り潰そうとしていたのだ。
「諸葛亮……。貴殿は天を操った。だが、この血塗られた現実を支配するのは、この私、周公瑾だ!」
剣を振り下ろすたびに、曹操軍の夢が、野心が、そして五十万の命が、灰燼へと帰していく。
赤壁はもはや戦場ではない。周瑜という天才が、曹操という巨人を生贄に捧げる、巨大な祭壇であった。
一方、私は。
その炎の照り返しを遠くに受けながら、独り、小舟を漕いでいた。
周瑜の「静かなる狂気」と「鮮烈な武功」が赤壁を支配する中、彼は暗闇の先に見える、次なる盤面――「曹操を逃がし、三國を鼎立させる」という、さらなる非情な理を見据えていた。




