第五十五話:七星壇の孤独
第五十五話:七星壇の孤独
執筆:町田 由美
南屏山の頂に築かれた「七星壇」は、異様な殺気を孕んでいた。
三層に積み上げられた壇の周囲には、旗指物が寒風に激しくたなびき、道士の衣を纏った私は、その中央で独り、天を見上げていた。
足下には、周瑜殿が送り込んだ「守護兵」という名の監視役たちが、鋭い眼光で私の背中を狙っている。彼らの懐には、東風が吹いた瞬間に私を仕留めるための、冷たい匕首が隠されていることを、私は「理」で知っていた。
(……周将軍。……あなたは火を放つために私を利用し、火が燃え上がる前に私を消そうとしている。……それでいい。……それが、私という怪物を恐れる、あなたの正義なのだから)
私は、髪を振り乱し、剣を抜き放って壇上を舞った。
それは祈りではない。計算だ。
私は、数日間に及ぶ気象観測のデータを、己の肉体の感覚と同期させていた。湿り気を帯びた空気の重さ、上空を流れる雲の速度、そして、肌を刺す風のわずかな反転。
「――天よ、応えよ!!」
私は叫んだ。その声は、かつて隆中で月英殿と語り合った時の穏やかさを微塵も残さず、狂気に満ちた呪術師のように響いた。
三日三晩。私は一睡もせず、食を断ち、ただ風の到来を待った。
壇の下では、魯粛(子敬)殿が青ざめた顔で私を見上げている。彼は知らない。私が祈っているのは「風」ではなく、密偵を通じて手配した「退路の舟」が、予定の場所に届くまでの『時間』であることを。
「……軍師。……風は、まだ吹かぬのか」
壇の下から、刺客の一人が痺れを切らしたように声を上げた。私は答えず、ただ目を閉じた。
その時、私の頬を打つ風が、一瞬だけ止まった。
――静寂。
世界から音が消え、ろうそくの火が真上に伸びる。
そして、次の瞬間。
ゴォォォォォォッ!!
私の背後から、暖かい、湿った南東の風が爆発するように吹き抜けた。
冬の長江にはあり得ぬ、熱を帯びた「奇跡の風」。
東風だ。
「……吹いた! 東風だ! 風が吹いたぞ!!」
歓喜に沸く呉の兵たち。刺客たちが刀を抜き、壇を駆け上がってくる。
私は、彼らが壇上に達する数秒前に、あらかじめ用意していた壇の裏側の「抜け道」へと身を躍らせた。
「……さらばだ、赤壁。……あとは火を放つがいい、美周郎」
私は、闇夜に紛れて山を駆け下りた。
岸辺には、月英殿が手配し、密偵が守り抜いた二十隻の小舟が、霧の中に音もなく揺れている。
私は、一艘の舟に飛び乗り、力一杯に櫂を漕ぎ出した。
背後で、赤壁の空が不自然に明るくなる。
黄蓋殿の火船が、曹操の艦隊に突っ込んだのだ。
私は神を演じ終え、再び、一人の「逃亡者」となった。
長江を焦がす紅蓮の炎を背に、私の瞳からは、一筋の熱い涙が零れ落ちた。
それは、勝利の喜びではない。
自らの計略によって、今この瞬間に焼かれ、死んでいく数万の兵たちの絶叫に対する、軍師としての、あまりにも遅すぎた「葬送」の涙であった。




